「信仰の必然」

2016年10月16日(聖霊降臨後第22主日)

ルカによる福音書18章1節~8節

 

「わたしはあなたがたに言う。彼(神)は行い給う、彼らの正しい裁きを、速やかに。にもかかわらず、来たり給う人の子が見出すであろうか、信仰を、地の上に。」とイエスは言う。信仰を見出すであろうか、いや見出さないであろうという否定的嘆きを最後にイエスは語る。信仰に留まる者が一人もいないであろうことを嘆いている。それが人間の罪の姿であり、人間は最後に信仰を捨ててしまうであろうとイエスは嘆いている。人の子が来たるときは、終わりの時である。いつ来たるとも分からない時である。いつとも分からない人の子の来臨まで、人間は神の約束に信頼し続けることはできないであろうとイエスは嘆くのだ。それが人間の限界である。

そうであれば、このたとえにおいて語られている「いつも祈ること、悪くならないこと」の必然は必然ではないことになるのか。「ねばならない」と訳されるギリシア語はデイであり、神的必然を語る言葉である。従って、最初に語られているのは「いつも祈ることが必然であり、悪くならないことが必然であるということについて、彼はたとえを語った。」ということである。この必然は信仰の必然であり、信仰を与えられていれば、必然的にいつも祈り、悪くならないと、イエスはこのたとえで語っているのである。「失望する」と訳される言葉は「悪くなる」が原意であり、悪くなって失望して、やめてしまうのである。悪くならない人は「失望する」ことはない。神が与え給うた信仰が働いているならば、祈ることは必然的に起こり、悪くならないで必然的に、継続的に神に信頼する。それゆえに、イエスはこのたとえを語ったのである。

しかし、神を畏れない、人を敬わない裁判官が神になぞらえられている。彼は、神も人もなんとも思わず、自分のために生きているような存在である。それゆえに、自分が迷惑を被り、ひどい目に遭わされると分かったときには、自分のために正しい裁きを行おうとする。それもこれも、自分を中心として生きているからである。自己の利益のためには何でもする裁判官である。その人が、ひっきりなしにやって来るやもめの裁判を正しく行おうと言うのである。

やもめを訴えた男はやもめの財産を奪おうとしていたのであろう。当時は男しか裁判を起こすことができなかったからである。やもめは自分のものが奪われる裁判を何とかしたいと思い、裁判官が正しい裁きを行うようにと嘆願したのである。しかも、ひっきりなしにやって来て、訴えた。夜昼かまわず、やって来るやもめによって、裁判官は眠りを妨げられたのであろう。それゆえに、彼は裁判を起こした男から報酬をもらえないとしても、このやもめの嘆願に従って、正しい裁きを行おうと言うのである。神はなおさらそうしてくれるとイエスは言う。

神は不義ではなく、正しい裁きを行い給う。たとえ女が訴える権利を持っていなくとも、女の訴えに耳を傾けるであろう。神は、男であろうと女であろうと、地位があろうとなかろうと、そのようなことに関わりなく、正しい裁きを行うお方である。それならば、この女のようにひっきりなしに来ることがなくとも、神の裁きは正しいはずである。もし、ひっきりなしに祈るのでなければ、神は聞き給わないとすれば、それは正しい裁きなのだろうか。まして、不当な報酬を求めるような存在のひっきりなしの訴えに耳を傾けるのであろうか。われわれが祈るとしても、祈らないとしても、神は正しい裁きを行うはずである。不当な裁きを求めても、正当な裁きしか行わないはずである。イエスはこのたとえで何を語ろうとしているのであろうか。

女を訴えている男が不当な訴えで、女から財産を奪おうとしているのであれば、裁判は正しく行われて、男の訴えは退けられるであろう。ところがそうならないのがこの世であり、不義なる裁判官は正しい裁きを行わないということである。自分に報酬が与えられるならば、不義であろうとも義とするということである。それを覆すのは、しつような嘆願だけだとイエスはたとえを語るのだ。それゆえに、夜昼叫ぶ人たちは、正しい裁きを受けることができないで、略奪されている人たちである。略奪されている人たちの叫びを神は聞き給うとイエスは語っていることになる。

正しい裁きとはいったい何であろうか。奪われてしまうということは、この世の法律に従って、法律を曲げて解釈し、奪う存在に荷担することなのか。正しい裁きは、真実に叫ぶ存在が正しいことを認めることである。この女は、不当にも奪われそうになっているものが奪われないために、裁判官に正しい裁きを嘆願するのである。この世の裁判官が執拗に叫ぶ存在の叫びを聞かないはずはないということがたとえで語られていることである。しかし、裁判官は自分の平安のためにそうするのではあるが。

そうすると、真実の信仰とはこの世では叫ばざるを得ないような信仰なのである。不当にあつかわれる信仰なのである。そのような信仰を人の子は見出すであろうか、否、見出さないであろうとイエスは最後に嘆く。信仰を与えられているならば、真実に叫ぶのであり、いつも祈るのであり、悪くならず、神が正しく裁き給うと信頼するのである。それが真実の信仰、神が与え給う信仰である。それは「選ばれた者たち」に与えられている信仰である。

一方で、この世の信仰は、人間の信仰であり、自分が確信すると考える信仰である。それゆえに、人間の信じる力でしかなく、その力はすぐに尽きてしまう。人間は、自分の力による信仰はすぐに捨てる。しかし、神が与え給う信仰は、人間が捨てることができない信仰である。神が与え給うのだから、必然的に神に祈り、信頼する。このような信仰を見出すことはないであろうとイエスは嘆く。そうである。自分の思う通りに聞いてもらえないと祈ることを捨てる。どうせ、良くはならないと、悪に傾く。こうして、この世には悪が広がり、信仰は見出されない。それが地の上にあるこの世なのである。

地の上には信仰はない。信仰は天上的賜物だからである。天上的賜物は必然的に神に祈る。われわれは真実に祈っているのか、悪くならないで神に信頼しているのか。それはあくまで信仰の働きである。わたしの信仰では、真実に祈ることはなく、悪くなって、信仰を捨てるのである。神がわたしを造り替えてくださらない限り、わたしは真実に祈る者とはならない。悪くならず、信頼し続ける者とはならない。神が与え給う信仰を受け取っているならば、いつも祈るであろうし、神を信頼し続けるのである。われわれがそうなっていなければ、われわれは信仰を与えられているのではない。信仰のうちに生きているのでもない。信仰を受け取ってはいないのである。信仰を受け取っているならば、祈りたくないと思っても、祈り続けるであろう。絶望しそうなときにも、信頼し続けるであろう。そうして、われわれは神の信仰のうちに生かされて行くのである、人の子が来たるときまで。これが選ばれた者たちである。

このような信仰を受け取っているならば、現さなければならないというような論理は出てこない。必然的に信仰が現れるからである。現れないとすれば、信仰を受け取っていない。現れるようにしなければと考えるときも信仰を受け取っていない。信仰が与えられているならば、必然的に現れる。いつも祈り、怠ることなく、神に信頼して生きるのだ。

もし、あなたがいつも祈っていない、悪くなってしまうと思うならば、信仰が与えられるように祈るであろう。常に祈るであろう。与えられると信頼して祈り続けるであろう。この祈りにおいて、すでに信仰が与えられている。絶望的状況に直面しても、信仰を与え給うお方に祈るとき、絶望で終わらないのだ。それこそが、キリストの十字架が語っていることであり、神の力、十字架の言である。キリストは十字架の上で、この信仰を生きてくださった。この信仰がわれわれに与えられるようにと、ご自身の体と血を与えてくださる。キリストがわたしのうちに生きてくださるとき、わたしは信仰の必然を生きていくことが可能となる。今日もいただこう、神の力、真実の信仰に生かし給う力を。来たり給う人の子が選ばれた者の信仰を見出してくださるように。

祈ります。

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