「エレウテロス」

2016年10月31日(宗教改革記念日集会開会礼拝)

ヨハネによる福音書8章31節~36節

 

「それゆえ、もし息子があなたがたを自由にするなら、確かにあなたがたはエレウテロスたちであるだろう。」とイエスは言う。エレウテロスとは、自由な者、自由人を表すギリシア語である。この自由人は、古代ギリシアの都市国家ポリスの市民を意味した。自由人は自分の生活のために働く必要はなかった。何故なら、奴隷がそのために働いていたからである。自由人が行うことは、自分の生活のための仕事ではなく、ポリスのための仕事であった。他者のための仕事をする自由人こそが、真実に人間であると考えられていたのである。

これは奴隷制度によって保たれていた自由人の社会ポリスの現実である。しかし、イエスが言う「罪を犯す者は、罪の奴隷である」という言葉が示すように、聖書が語る人間存在は自由ではないのだ。人間は自分のために生きている。他者のために善いことをしても、自分のためである。自分の成果として人に自慢する。自分の力を誇る。我々が行うとき、必ず自分の方に引きよせてしまうのである。これが罪の奴隷である人間の姿である。

ユダヤ人たちは、「誰にも奴隷になったことはない」と言って、反論する。イエスは「罪を犯す者は、罪の奴隷である」と応える。この議論は、物理的、社会的に奴隷であることと、実存的に奴隷であることの違いが混同されている。この世において、如何に善い人間であろうとも、その実存においては罪の奴隷である。自分のために善い人間であろうとするからである。自分のために善いことを行うからである。自分が認められるために、善いことを行うのが、罪の奴隷である。全く、見返りを求めず、行った結果を誇らず、行いそのものを純粋に神への従順から行う者こそが、自由な者、エレウテロスなのである。

マルティン・ルターは、このあたりの事情を「キリスト者の自由」において詳細に論じた。それは、内的人間がみことばと一つとなるとき、外的人間において善き業が生じるということであった。イエスが8章31節、32節で語っている通りである。「わたしの言のうちに、あなたがたが留まるならば、真実にあなたがたはわたしの弟子である。そして、あなたがたは真理を認識する。そして、真理は、あなたがたを自由にするであろう。」と。イエスの言に留まるとは、イエスの言の内に留まるという意味であり、イエスの言と一つになることである。そのとき、我々は真理を認識し、真理が我々を自由にする。自由にされた者として、見返りを求めることなく、喜んで神の意志に従う者とされるのである。これがエレウテロス自由なる者なのである。

マルティン・ルターは、このエレウテロスを自らの名前に取り込んだ。徳善義和が「マルティン・ルター」という本の中でこう書いている。父の名であるルダーからルターに変わっていくのだが、その間にはエレウテリウスというギリシア語風のラテン語名があるというのである。このラテン語名はエレウテロスというギリシア語にラテン語人名語尾をつけて作られた名前である。ルダーからルターに変わる直前の手紙の署名はこのようである。「兄弟マルティヌス、エレウテリウス、しかしながら、まったくの僕で捕らわれ人」と。ルターという名は、この意味を込めて、縮められた名前なのである。エレウテリウスとルター、ルーテルとは音韻上の類似が認められるからである。キリストにあって罪から解放された自由な者であるが、しかしながら神の奴隷であって、みことばに捕らえられている者であるという意味を込めて、彼はルターと名乗るようになった。「自由であって奴隷」という逆説的な意味がルターという名前には込められていると徳善義和は記している。

ルターが自己認識として、自分の名前を変えていった背景には、自由を求め、どこに自由を見出していくのかに苦闘した経験が土台にある。自由を獲得するための自分の努力や力に絶望した経験を持ってこそ、ルターは神の言によって自由とされることを認識することができたのである。イエスがおっしゃるように、「わたしの言の内に留まるならば、あなたがたは真実にわたしの弟子である」との言葉に信頼したのである。そして、「あなたがたは真理を認識し、真理はあなたがたを自由にするであろう」というイエスの言に平安を得たのである。

我々人間が、罪の奴隷であるならば、自分から自由になることはできない。イエスがおっしゃるように、息子が自由にすることがなければ、奴隷は自由にならないのである。自由にされた奴隷は、家から出て行くのではあるが、自由にされたのだから、自由な主体において家にいることも可能となるのである。それゆえに、ルターが言う「エレウテリウス、しかしながらまったくの僕で捕らわれ人」ということも、自由な者であるのは、まったく神の働きなのであるということである。神の働きに頼るしかない奴隷であり、神の言に捕らわれているわたしなのだという自己認識である。ルターは、人間が自由に神の意志に従うということは、自分自身の努力や力によってではなく、神の言によってのみ、神の恵みによってのみ可能となると認識した。従って、信仰における人間は自由であるが、まったくの僕なのである。これが、ルターの見出した信仰義認条項の根幹である。つまり、神の独占活動によってこそ、我々は自由とされ、神に喜んで従う者とされるということである。これがヨハネによる福音書8章31節以降で語られている自由の意味であり、信仰によってのみ可能となる新しい人間の姿なのである。

我々人間は、自然的には神の言に従わない。信仰によってのみ、神の言に従う者とされる。この信仰さえも、パウロがローマの信徒への手紙3章22節で語る「キリストの信仰を通して信じる」という出来事である。それゆえに、ルターは「まったくの僕」と言うのである。これこそが真理である。

真理とは、隠れなくあることである。ありのままに見ることによって、認められるものである。隠れなくある真理とは、我々人間が罪の奴隷であるという認識である。この認識を開くのは、みことばである。福音の言、キリストの十字架の言が、この真理を開く。この真理によってこそ、我々は自分自身の奴隷的生を認識し、認識したことによって、自由を得させてくださるお方を望むことができるのである。「もし、息子があなたがたを自由にするならば、確かにあなたがたは自由なものたち、エレウテロスたちであるだろう。」とイエスが語る通りである。

我々キリスト者は、神の息子であるイエスによって、自由とされた者、エレウテロスたちである。しかし、まったくの神の僕たち、神の言に捕らわれている者たちなのである。我々の自由の根源は、神の言にある。神の言こそが、我々を自由にする。神の言こそが、我々を捕らえ、神ご自身のものとして生かし給う。神の言である十字架の言こそが、我々の救いである。ルターが「キリスト者の自由」において語っているように、我々は信仰という結婚指輪を神からいただいた自由なる者である。しかし、結婚という出来事によって、キリストと一つの体となったキリストの捕らわれ人である。キリストの言、キリストご自身との一体性という信仰の中で、我々は救われる。自分自身の力でも功績でもなく、ただキリストの功績という恵みによって、救われる。この真理の端的な表現が宗教改革的原理「信仰によってのみ、恵みによってのみ、聖書によってのみ」なのである。これら三つの原理は、すべて神の賜物。神が我々に与え給うもの。それゆえに、我々人間は神の独占活動によって救われるのである。それこそが、十戒の第一戒「わたしの他に神があってはならない」を満たす神の出来事である。第一戒を満たす者こそ、律法すべてを満たす者である。このようになるために、神はキリストの十字架を通して、我々を救い給うた。キリストがご自身の体と血を与えてくださる聖餐によって、我々の内にキリストが形作られ、わたしのうちに生きてくださる。わたしが生きているのではない。キリストがわたしの内に生きているのであるとパウロが語った信仰の現実が我々のいのちに現れる。我々はエレウテロス、しかしながらまったくの僕で捕らわれ人。

神にのみ栄光がありますように。

祈ります。

Comments are closed.