「一なる熱意」

2016年10月30日(宗教改革主日)

ヨハネによる福音書2章13節~22節

「わたしの父の家を、商売の家として作ってはならない。」とイエスは言う。「家」とは、その主人の意志が貫徹しているところである。父の家には、父の意志が貫徹している。父はご自分の家を商売の家とする意志を持っていたのではない。ソロモンが神殿を建てたとき、彼はこう祈った。「聞いてください、このところに向かって祈るあなたの僕とあなたの民イスラエルの嘆願を。そして、あなたが聞いてください、あなたが住んでおられるところへと、天へと。そして、聞いて、赦してください。」と。列王記上8章30節には、このソロモンの神殿奉献の祈りが記されているが、イエスの時代にはもはやこの祈りは忘れられ、贖罪の献げ物によって赦しを受けることが当たり前となっていた。そのために、贖罪の動物を販売する者たちが、神殿の境内で商売することに、神殿そのものが仕える状態が恒常化していたのである。この姿を見たとき、イエスは商売する者たちを追い出した。そして父なる神の意志が貫徹する父の家を起こそうとされたのである。それを見て、弟子たちは「あなたの家の熱意が、わたしを食べてしまうであろう」と書いてある詩編69編10節の言葉を思い起こしたと言われている。

ヘブライ語では「神殿」はベイト「家」という言葉が使われている。神殿は「神ヤーウェの家」なのである。その家が持っている「熱意」がわたしを食べたのだと詩編の作者は歌っている。家自体が持っている熱意が、その家のことを思う人を食べてしまうのである。つまり、父の熱意がその人を包み込み、動かしているということである。神ヤーウェの神殿には、父の熱意が宿っている。その熱意に触れた存在が、父の熱意に反することが行われていることを見て、動かされた。イエスが商売人たちを追い出した行為に、その熱意が現れている。

父の熱意、家の熱意が宿っているのは、神殿の中の至聖所と呼ばれる神の臨在の場所である。ギリシア語でナオスと言う。神殿の周りの境内をヒエロスと言う。商売は、境内ヒエロスで行われていたが、至聖所ナオスに献げるためのものを売っていた。商売のために至聖所ナオスが利用されていたのである。イエスは、本末転倒した姿を質すために、商売人を追い出した。

このイエスの行為に対して、ユダヤ人たちが「どんなしるしを見せるのか」と迫ったとき、イエスはご自身の体を持って、至聖所ナオスを起こすと言われた。それは建物自体を破壊しても、神の意志である熱意は起こされるものであると語ったのである。神の意志は失われない。この場所に向かって、神は神の民の祈りを聞き、赦し給うお方である。この全体を「家」という言葉が表しているのである。家とはギリシア語でオイコスであるが、これは建物というよりも家を営むことを意味している。建物自体を表すときにはオイキアが使われた。従って、ここでは家全体の財産および家を営む意志を表しており、神の意志に従って一である家を語っているのである。それが「あなたの家の熱意」と言われる事柄である。

イエスはこの「一である」ことを目指す父の家の熱意に促されて、神殿の境内を浄めた。しかし、それは最終的に至聖所を起こす十字架に至ると言われている。イエスが言う「神殿」と訳されている言葉が至聖所ナオスであるということが重要なことである。イエスは建物を起こすと言っているのではない。家全体の熱意の中心としての至聖所ナオスを起こすと、イエスは語っているのである。「この神殿を壊してみよ」とは「このナオスを壊してみよ」である。それを三日のうちに、わたしは起こすとイエスは言う。起こすとは復活を意味する言葉でもある。それゆえに、ここでイエスが語っているのは、神の家の熱意に支配されたイエスご自身を破壊することは至聖所ナオスを破壊することであり、それは十字架において起こることだという意味である。しかし、その破壊によっても、至聖所は破壊されず、父の家の熱意は失われず、「三日のうちにわたしは至聖所ナオスを起こす、父の家の熱意に基づいて。」とイエスはおっしゃっているのだ。

我々人間が、父の家の熱意を見失い、商売の道具としてしまっても、父の家の熱意は失われない。民の祈りを聞き、赦し給うお方の熱意は失われない。それゆえに、我々人間が罪深くともなお、神は罪を認め、救いを求めて祈る者の祈りを聞き給う。神は、我々が神に頼り、神に祈り、神に救いを求めることを至上の喜びとしてくださるのだ。それこそが父の家の熱意である。

この熱意の神は、旧約聖書では「妬む神」とも訳される神の熱情である愛を表す言葉である。イスラエルを愛した神ヤーウェは、イスラエルが他の神々に心惹かれていくのを妬むほどに愛しておられる。この熱情、熱意が父の家である神殿を一とする熱意なのである。父の家を営み、動かす熱意が一なる神の「一なる熱意」である。この「一なる熱意」こそが至聖所ナオスであり、イエスの体の至聖所ナオスなのである。イエスの体の至聖所こそは、イエスの十字架を起こしたのであり、イエスの復活と一なる十字架こそが至聖所である。十字架と復活には、父なる神の熱意が生きているからである。我々人間の罪を赦そうとしてくださる熱意が十字架を起こしたのである。その熱意が今日イエスを突き動かした熱意である。

この熱意は、至聖所において臨在する神の意志、神の言葉である。神は、物理的にそこに存在するのではなく、言葉として臨在し給う。民の祈りを聞き、赦し給う約束の言葉として臨在し給う。至聖所において、神は民の祈りの言葉を聞き、赦しの言葉を語る。至聖所において、民の真実なる心からの祈りの言葉を通して、民の心を神が聞くのであり、民も神の赦しの熱意の心を受け取るのである。言葉における神と人との交流をこそ、至聖所は表している。従って、十字架という至聖所は、父なる神の言として建てられている。信じる者を救う神の力として建てられている至聖所なのである。至聖所の中心は、神の言葉そのもの、神の約束の言葉そのものである。これを失わないために、イエスは神殿を浄めた。

イエスが、みことばである父の家の熱意に押し出されて、神殿を浄めたように、マルティン・ルターもみことばに押し出されて、当時の教会を批判した。みことばが聞こえない教会だったからである。哲学によって、神学するという過ちが、スコラ神学によって公然と行われていた。哲学と神学とは相容れないものであり、哲学は人間理性の学であり、神学は信仰の学である。みことばは、信仰によって聞くものであって、理性によっては聞くことができないものである。ルターは、神学の神学たる根幹を取り戻した。それは、イエスが起こすと言われた至聖所である十字架の神学であった。

至聖所を起こすならば、家全体が起こされる。至聖所が失われているならば、家全体が失われる。父の家は、至聖所の起こしによってこそ、真実に父の家となる。それゆえに、内から外へという方向性がルターを支配したのである。外側は、内側が整えられてこそ、現れるものであるという「キリスト者の自由」の方向性は、イエスの至聖所の起こしと同じ方向性を持っている。従って、我々はこの至聖所なる十字架をこそ、我々の信仰の中心にしなければならない。十字架こそ、わたしの信仰の中心であり、信仰の源泉である。

マルティン・ルターの見出した信仰義認とは、この信仰の源泉を、神の働きとして見出したことであった。もちろん、使徒パウロがローマの信徒への手紙において詳細に語っていることであったが、哲学によって、見えなくなっていたのである。ルターは哲学を排除することによって、神学の中心を明らかにしたのである。このルターを動かしたのは、みことば、十字架の言葉であった。

ソロモンが祈ったように、我々も祈るのだ。罪を赦してくださる約束を信じて、神に祈るのだ。真実なる祈りを神は喜び給う。神は聞き給う。そして、神は憐れみ給う。この憐れみを、イエスはご自身の体と血において我々に与えてくださる、一なる熱意によって。

祈ります。

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