「父と共に」

2016年11月6日(全聖徒主日)

ヨハネによる福音書16章25節~33節

 

「何故なら、父ご自身があなたがたを愛しているから。というのは、あなたがたがわたしを愛してしまっているからであり、わたしが神のところを出てきたと信じてしまっているからである。」とイエスは言う。聖徒という言い方は、イエスは用いていないが、使徒パウロは聖なる者ハギオスというギリシア語で表している。聖なる者たちと呼ばれる存在は選ばれている存在であり、選びを受け取っている存在である。父なる神のものとして生きている存在である。イエスがここでおっしゃっているように「父御自身が愛している」存在こそハギオス聖徒たちである。

しかし、その聖徒たちはイエスを愛してしまっているとイエスは言うのだから、聖徒たちがイエスを愛してしまっている愛は、父の愛を受け取っているがゆえである。神の愛は、愛する者を造るのであるとルターが語った通りに、聖徒たちはイエスを愛する者として造られている。イエスを憎む者、イエスを捨て去る者、イエスを離れる者は聖徒ではない。しかし、弟子たちはこのイエスの言が語られた時点では、イエスを愛していたかも知れないが、イエスの十字架の時点ではイエスを捨て去ったのではないのか。そうである。しかし、彼らがイエスを捨て去ることは罪の力に屈したからである。未だ彼らが信頼し切れていなかったからである。ここでイエスが語っておられる「愛してしまっている」愛、「信じてしまっている」信仰の働きを信頼し切れていなかったからである。この愛も信仰も、父御自身が彼らに与えたものであり、彼ら弟子たちが自分の内から生み出したものではなかった。それゆえに、自分の力を見て、苦難の時にイエスを見捨てることが起こった。にもかかわらず、彼らが苦難の向こうで、自らの罪深さに打ちひしがれているとき、イエスが現れてくださったのだ。イエスの復活を見せられることにおいて、彼らはイエスが語ってくださっていた言を思い起こし、取り戻した。彼ら自身の愛や信仰ではなく、ただ神ご自身の愛こそがわたしを救い、わたしを愛する者として造る力なのだと、取り戻した。そこに至ってこそ、我々キリスト者はキリストのもの、神のもの、聖徒として生きるのである。

未だ自分の力によって生きている者は聖徒とは言えない。自分の力を捨てざるを得ない苦難を通った者として、漸く聖徒とされると言えるであろう。それゆえに、真実にキリスト者とされている者はすべて聖徒なのである。彼らは、死に至るまで、礼拝を離れず、神を離れず、キリストを離れなかった者であり、神の力に信頼して、死を迎えた者である。

我々は、この全聖徒主日において、このような者たちを覚える。我々の信仰の歩みが彼らの歩みに倣うものであるようにと祈る。彼らが聖徒であることは、神が彼らを愛したがゆえであることを覚える。神が愛する愛を受け取った存在として、神を愛し、イエスを愛し、神の許からのこの世へ出てきたイエスを信じる。死に至るまで信じ続ける者が聖徒たちである。そのような者たちすべては、神のものとして生きた。自分を捨てて生きた。最後まで、キリストを愛して生きた。それゆえに、キリストの勝利がその人を包んでいる。ローマの信徒への手紙6章8節で使徒パウロが語った通り、「もし、キリストと共にわたしたちが死ぬなら、わたしたちは信じている、またキリストと共に生きるであろうと」という生を生きている、天の父の許で。

彼らは苦難をも神の恵みとして生きた。イエスがおっしゃるように、「あなたがたは世において苦難を持っている」ということを神の必然として生きた。しかし、「勇気を出しなさい。わたしは世に勝ってしまっている」とおっしゃるイエスの言に信頼した。この言こそが、我々を力づける神の言、十字架の言である。十字架の苦難を受難として引き受け給うたお方、我らの主イエス・キリストがこうおっしゃるのだ。イエスを愛する者は、イエスと共に苦難を引き受けて生きる。そのとき、苦難は苦難ではなく、神の恵みとして働く。恵みとは、神の意志に従って起こり、神の意志に従って成り、神の意志に従って生きる力を与える神の働きなのである。それゆえに、苦難を神が与え給うたと信じて、引き受け、生きる者は、「神ご自身が愛している」ことを生きている。苦難の中でも「神ご自身が愛している」わたしを生きている。それゆえに、神と共に生きている。父と共に生きている。父の愛がその人を包み、その人を父の意志に従う者として造っている。その人は、父と共にあるがゆえに、何ものもその人を害することはない。復活の後はもちろんのこと、復活に至るときまで、父と共に生きる。父と共に生きるということは、父を信頼して生きることなのである。この信頼は、キリストが語られた勝利を信頼していることである。キリストもまた、十字架の上で父のご意志を信頼して、勝利を得たのだから。

自らの力の無さを思うとき、最後まで信じて生きることができるだろうかと思うものである。世において苦難が必然なのに、苦難に耐え得るだろうとか思うものである。しかし、聖徒たちは自らの力を見つめるのではなく、キリストの言だけを信頼し、見つめ続けた。わたしに力がなくとも、キリストは力あるお方だと見つめ続けた。わたしの心は変わりやすいが、キリストは変わらないお方だと見つめ続けた。わたしは嘘をつくが、キリストは嘘をつかないとみことばを聞き続けた。キリストがおっしゃるのだから、本当なのだと信頼し続けた。そこにおいて、彼らは自分の力を捨てたのだ。自分の感覚も捨てたのだ。いや、捨てざるを得なかった。彼らの力さえも、神が捨てさせ給うた。神を信じるとはそれをもって神を信じる信仰の働き、キリストの信仰の働きに与っているということである。

我々人間が、自分の信じる力で、神を信じ続けるのだとしたら、我々は弟子たちがイエスを見捨てたように、苦難の際に神を離れてしまうであろう。しかし、彼らがイエスの復活に与って、神の信仰の働きによって、自らを捨てるところへと導かれ、苦難を引き受ける生へと復活したように、我々も同じところに生きることが可能なのである。そのような生を可能とするのは神の力、神の信仰、神の愛である。

あなたが、聖徒たちの信仰に倣うことができないと思うのは当然である。あなたにはその力はない。あなたは、苦難に遭えば、すぐに神を離れるであろう。迫害に遭えば、神を捨てるであろう。しかし、自らの力の無さに直面したあなたに、キリストの言が聞こえてくる。「あなたがたは世において、苦難を持っている。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝ってしまっている」というキリストの言が。この声が聞こえたならば、我々は勇気を与えられる。自分の力に頼って勇気を持つのではない。キリストの言に頼って勇気を持つのである。キリストが世に勝ってしまっているのだから、わたしは何も恐れる必要はないと勇気を持つのだ。わたしには力はないし、信仰もないが、キリストがわたしにそうおっしゃるのだ。キリストは嘘をつかないお方である。キリストを信頼して生きよう。わたしがダメだとしても、キリストには可能なのだ。神に不可能はないのだから。こう言って、キリストを愛し続けた者たちが聖徒なのである。それゆえに、我々弱き者も、いや弱き者こそ、聖徒として生きることが可能なのである。キリストのゆえに可能なのである。キリストの力によって可能とされるのである。

今日、我々が覚えている聖徒たちは、キリストの勝利に包まれている。彼らも苦難に満ちた世に生きたが、世をすべてとして生きたのではない。世はキリストの勝利に飲み込まれているのだと信じて、生きたのである。死は、キリストの足の下に置かれ、働かなくされてしまっていると信じ、死が自らを害することはないと信じて生きたのだ。今日、我らは歩みだそう、彼ら聖徒たちのような父と共に生きる生を求めて。キリストは、ご自身の体と血を我らに与え給い、ご自身に似たものとしてくださる。我々は自らの力で聖徒となることはできないが、キリストの体と血によって、聖徒とされていく。感謝して、いただこう、父と共に生きる力を。キリストの十字架の力を。あなたがたは、神に愛されている者たちなのだから。

祈ります。

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