「イエスの名の下に」

2016年11月20日(聖霊降臨後最終主日)

ルカによる福音書21章5節~19節

 

「あなたがたの忍耐において、あなたがたは獲得しなさい、あなたがたの魂たちを。」とイエスは最後に言う。忍耐とはギリシア語でヒュポモネー。何かの下に留まること。何の下に留まるのか。イエスの名の下に留まるのである。何故なら、イエスの名の上にやって来る者たちが多くいるからである。

「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」と訳されている原文は、「多くの者が、やって来るであろう、わたしの名で」である。この「わたしの名で」と訳される言葉は、わたしの名に前置詞エピが置かれている。このエピは「上に」という前置詞であるが、ここでは「わたしの名で」と訳される。多くの者がイエスの名を使って、イエスの名の上に権威を主張して、やって来るのだとイエスは言う。しかし、あなたがたは「わたしの名の下に留まるのだ」と忍耐を勧める。名の上なのか、名の下なのかによって、イエスに対する在り方は全く違ってしまう。イエスの名を利用する者は、イエスの名の上に自らを置く。イエスに従う者は、イエスの名の下に自らを置く。イエスの名の下に留まる者は、イエスの名のために、王や総督から裁かれるであろうとも言われている。イエスの名の下に留まる者には不幸が下る。しかし、イエスの名の上にいる者には名声が来たる。というかのようである。それでも、イエスの名の下に留まる者がどれだけいるであろうか。それゆえに、忍耐が必要なのである。

イエスの名の下に留まる者は忍耐をもってしか留まれない。忍耐なき者は、楽な方へ逃げていく。こうして、自らの魂を失ってしまうのである。迫害を受けても、裁かれても、イエスの名の下に留まることができるか否かは、その人の意志によるのではない。むしろ、神の意志に従ってこそ、イエスの名の下に留まることが可能となるのである。何故なら、人間の自然的意志は罪に支配されており、自らのためになると思えること、自らがそれを確認できそうなことだけを選ぶからである。罪に支配されているがゆえに、自分のいのちを自分が救うために選ぶのである。イエスがおっしゃったように、「自分の魂を捨てる」ことができないがゆえに、自分の魂を破壊する。しかし、イエスの名のために、自分の魂を破壊する者は、自分の魂を救うのである。

多くの者が、イエスの名の権威の上に、やって来て、我々を惑わすであろうとイエスは言う。彼らは、我々に良いことを言う。「わたしはある」と神であるかのように言う。「神の介入の時が近づいた」とついてくるように迫る。そうして、あなたを救ってあげると言うのである。我々がイエスの十字架において救われているならば、イエスの名の下に留まるであろう。しかし、十字架の救いを受け取っていないならば、惑わす者に惑わされる。救いはすでに完成している、イエスの十字架において。救いの中に、わたしのすべてを沈めたのだ、洗礼において。イエスと共に死んだのだから、イエスと共に生きるのだ。この洗礼における神の約束を信頼しているならば、終わりの日に慌てることはない。ただ、イエスの名の下に留まるであろう。すでに救われている者として。しかしまた、罪人である自覚のうちにも生きているであろう。義人にして罪人であるキリスト者として生きているならば、我々はただイエスの名の下に留まるであろう。しかし、イエスの十字架の贖いを信頼できないでいるならば、我々は惑わされる。「わたしが神だ」と言う人間に。「神の介入の時をわたしは知っている。今がその時なのだ。わたしに従いなさい」と言う人間に。こうして、我々を惑わす悪魔は近づいてくる。

信仰は、わたしの確信ではないから、心許ないものである。神に信頼するということは、神に自信を持っていることであり、イエスの十字架に自信を持っていることである。わたしが確信できなくとも、イエスがそうおっしゃったのだと信頼することが信仰である。そこに留まるならば、我々は悪魔に惑わされることはない。惑わされる者は、自分で自分の救いを確信したいと思うがゆえに、惑わされる。わたしが確信したから救われるわけではない。神が約束し給うたがゆえに救い給うのだ。神の約束は反故にされることはないからである。必ず、実現するからである。

しかし、我々人間は、約束がいつ実現するかを知らされていないがゆえに、心許なくなる。そして、確認できる方法を求め、確認できると思える人間についていく。神が嘘をつかないと信頼しているならば、実現するまで神の言の内に留まるであろう。信頼できない人間が、自分で確認することを求めるのである。愚か者は、愚かであることを忘れて、愚かなことをなしてしまうのである。それが、我々のうちに住む罪が行わせることである。

それにも関わらず、確信ではなく、みことばに信頼し、イエスの名の下に留まることができるであろうか。これが、イエスが今日、弟子たちに忍耐を勧める理由である。イエスが「惑わされるな」、「留まれ」、「忍耐せよ」とおっしゃるのは、惑わされる弟子たち、人間たちのためである。我々も同じ人間として、惑わされる。救われる確信がないために、我々は神の言を疑うことにもなる。しかし、我々の確信は救いに不可欠ではない、神が救うのだから。イエスはそのために再び来るとおっしゃったのだ。イエスに従い、十字架を負って歩いたのかをイエスが認めるためである。イエスに従い、イエスの名の下に忍耐して留まったかを、イエスが認めるためである。イエスの名は、イエスの魂だからである。

イエスの名の下に留まる者は、イエスの言に従い、自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスの生に従う。それゆえに、イエスの名の下に留まるということは、イエスの魂を生きることである。十字架を忍ばれたイエスの魂が、わたしの魂と一つとなって生きてくださることである。そのような者は、自分を捨てているのだから、自分の確信も捨てている。自分のもとにあらゆるものを引きよせてしまう罪を働かなくされている。自分を捨てているということは、自分の魂を捨て、イエスの魂と一つとなった魂を生きるということである。それゆえに、終わりの日に、再びイエスが来られたとき、イエスの名の下に留まった者は、イエスと一つであるがゆえに、恐れることはない。イエスの名が、イエスの魂が、その人を守るのである。まさに、イエスの名は、わたしの砦、わたしの堅固な要塞なのだ。

イエスの魂と一つとなったわたしは、イエスが与え給う言葉を語る。それゆえに、王や総督の前で、どのように弁明しようかと恐れる必要はない。弁明などしなくとも良い。自らが信じているイエスを告白すれば良いのだ。自らが頼っているイエスを救い主と告白すれば良いのだ。この告白に立つとき、我々は何者でもない者として、キリスト者であることができる。

わたしは何者でもない。しかし、キリスト者である。わたしは何者でもない。しかし、キリストはわたしを救い給う。わたしは何者でもない。しかし、神の言は真実である。これだけを信頼していれば良い。終わりの日まで、イエスの名の下に留まる力は、このような信頼のみである。あなたの力では救われないのだから、イエスの名だけが救いの力なのだから。わたしの確信は何ももたらさない。イエスの名だけがイエスの魂を与える。わたしの言葉は余計なことを語る。イエスの名だけが真実を語る。イエスの名の下にこそ、真実の神の現臨がある。イエスご自身の魂、十字架がある。

十字架の下に留まるということは、イエスの名の下に留まることであり、イエスの魂を受け取ることである。そのような我々キリスト者のために、イエスは、ご自身を与え続けてくださる。我々が惑わされないために、ご自身の体と血を与えてくださる。イエスご自身がおっしゃったのだ。「取って食べよ。」、「取って飲め」と。イエスは我々に食べられ、飲まれることを望んでおられる。あなたのうちに生きることを望んでおられる。わたしはあなたのうちに生きる。あなたが生きるのではなく、わたしが生きると、イエスはおっしゃるのだ。感謝して、生きていただこう、我々がイエスの名の下に留まり続けるために。イエスの魂と一つにされるために。

祈ります。

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