「解放する救い」

2016年11月27日(待降節第1主日)

マタイによる福音書21章1節~11節

 

「ホサナ、ダビデの子に。祝福されてしまって、主の御名において来ている方は。ホサナ、いと高きところにおいて。」と群衆は歌う。この歌は、「救い給え」という歌である。ホサナという言葉は、ヘブライ語をギリシア語に音写したもので、ホシュアーナーがヘブライ語原音である。ホシュアーナーとは「救い給え」という祈願の言葉である。イエスという名もこの言葉からできている。ギリシア語ではイエスースと音写されているが、ヘブライ語ではイェホシュアである。日本語訳ではヨシュアであり、「ヤーウェは救い」という意味の名前。従って、ホサナとは「救い給え」という祈願の言葉である。そうすると、群衆の歌はこのようになる。

「救い給え、ダビデの子によって。祝福されてしまって、ヤーウェの名において来ている方は。救い給え、いと高きところにおいて。」と。

救い給えと歌われている「救い」とはダビデの子によって与えられる。いと高きところにおいて与えられるということである。このように歌う群衆は救いが何であるかを知っていたかのようであるが、この歌はダビデの子が再びエルサレムに入るときに歌われるものとして広まっていたと考えられる。それゆえに、群衆はイエスをダビデの子としてエルサレムに入っていく方だと思い、歌ったのである。

ダビデの子が救うとは如何なることであろうか。その救いとは解放である。縛られていたところから解き放たれることである。当時のイスラエルはローマの支配の下にあって、自らの独立的国は失われ、苦しんでいた。そこからの解放を人々は願っていた。それゆえに、この歌が人々の口に上ってきたと言えるであろう。それは解放されたいとの神への祈りである。イエスのエルサレム入城において、この祈りの歌が自然と歌われたのは、人々が日々祈っていたからである。自分たちを解放してくださる救いが来たるようにと。

イエスご自身も、解放する救いを来たらせたいと願っておられた。それゆえに、縛られているロバを解き放って、連れてくるように弟子たちに命じたのである。ロバの解放は、イエスがこれからエルサレムで成し遂げるべき御業のしるしである。それは単に人間によって縛られている支配からの解放ではなく、罪に縛られている人間の解放である。ロバの解放は、エルサレムでイエスが成就する十字架の出来事を指し示すしるしである。

群衆には、そこまでの思いはないであろう。それでも、自分たちの苦しい現状から解放されたいとの願いは持っていた。その解放は実はイエスが成し遂げる十字架においてこそ実現するのである。群衆の思いはローマからの解放であった。しかし、イエスはローマからではなく、根源的な救いを成し遂げるべくエルサレムに入城するのである。イエスは、群衆の無理解にもかかわらず、自らの道を進む。彼らが縛られている罪を見つめながら。我々人間の罪を見つめながら。罪の根源的救いを望み見ながら。

イエスが見ていたのは、根源的救いであるが、群衆が見ていたのは政治的現状からの救い。この世に現れている窮状からの救いである。イエスがもたらす根源的救いは、政治的現状でもこの世の窮状でもない人間自身の罪からの解放である。罪からの解放は罪に縛られていることを自覚しなければ受け取ることはできない。この自覚を促すことこそがイエスが十字架において実現することである。罪に縛られている人間であるわたしがイエスを十字架に架けたのだという自覚である。イエスの十字架がわたしの罪の結果であると受け取る自覚である。そのような自覚は、誰でも持てるものではない。罪に苦しんだ者しか持つことはない。それが、根源的救いが目指していることである。根源的解放の出来事、十字架が目指していることである。それはイエスご自身が十字架に縛られることにおいて実現する救いである。縛られている救い主イエスを仰ぐことにおいて、自らを縛っていた罪を自覚する者が、罪から解放され救われる。そのために、エルサレムに入城するイエス。このお方は、ヤーウェの名において来ている方。イエスという名が「ヤーウェは救い」という意味であると同時に、イエスがこの地上に縛られるために生まれた神であることを意味している。

フィリピの信徒への手紙2章6節以降にあるキリスト讃歌が歌うように、神の形を捨てて、奴隷の形を取ったということである。人間と同じになった神がエルサレムにおいて成就する解放、救いは、奴隷という形に縛られることによって実現する。神という自由なるお方が奴隷となる。それは神が仕えることである。支配されることである。縛られることである。奴隷として、人間に仕える神。これがイエス・キリストである。このお方は、聖霊によってマリアの胎に宿ったお方。胎のうちに自らを小さくしたお方、小さくされている者たちを解放するために。

縛られている者を解放するために自ら縛られる神。小さくされている者を解放するために自ら小さくなる神。この逆説的行為は、イエスのこの世への降誕から始まっている。神がご自身を虚しくすること、ケノーシスとギリシア語で表現される出来事。これがイエスの降誕における神の意志であり、エルサレム入城におけるイエスの意志である。

イエスはエルサレム入城において、この地上に降し給うた神の意志に従う。この入城において、神の意志がイエスの意志と一つとなる。降誕と十字架が一つとなる。イエスの降誕は、このときのためにあったのだから。このときのために、イエスは生まれたのだ。イエスが生まれることによって、この世界を縛っている罪が働かなくされるために。この罪は、アダムとエヴァの堕罪において、この世を、人間たちを縛った。群衆は、自分たちが縛られている罪を知らず、政治的に縛られていることだけを知っている。彼らの現実の中に現れているものは、彼ら自身のうちに住む罪から来たっている。何故なら、互いに縛り合うことが罪の本質だからである。

自らが縛られているとは自覚しない人間が誰かを縛ることによって自由であると思い込む。ローマがイスラエルを縛ることによって自由であると思うがゆえに、イスラエルはローマからの解放を願う。それは根源的な罪を自覚しないがゆえである。この世に現れているものを変えたところで、現れているものの根源は変わらない。それゆえに、再び現れる。ローマの支配から解放されても、自分たちが誰かを縛り、また他の国に縛られる。この縛り合いこそが、罪の現れである。それゆえに、ローマからの解放を本質的に生きるには、自らの実存的解放がなければならないのである。たとえ、この世にあって縛られても、自由であるということは可能なのだ。この世の罪の現れによって縛られても、罪から解放された者は自由である。本質的に自由である。イエスのエルサレム入城が目指す地点は根源的解放としての救いである。

我々はよくよく考えねばならない、神がここまでして、我々の解放を願ってくださったということを。我々人間が全く自らの罪を自覚しないにもかかわらず、神はそのために御子を生まれさせたということを。神の一方的恵みとして御子は生まれたということを。神の解放したいとの意志によって御子が生まれた。御子も神の意志を生きることをご自身のいのちとした。我々人間が自らの解放のために何もなし得ないで、誤った道を歩み行くにもかかわらず、神がその人間のために苦しみ、御子を降し給うたのだ。御子の降誕と十字架は、我々人間のあずかり知らぬところで実現した。神の意志として実現した。我々人間が何もなし得ない、いや悪しかなし得ないことを神がご存知だからである。我々の罪、我々の愚かさゆえに、神はご自身で救いを実現しなければならなかったのだ。しかし、それこそが我々が真実に救われることである。人間が何もなし得ないことこそが真実に救いである。我々はただ神の御業によって解放され救われる。

クリスマスに生まれ給う嬰児を感謝して迎えよう。我々のために、小さくなる神を喜び迎えよう。クリスマスには、神の御業を仰ぐことができますように。共にひれ伏し、御子を拝むことができますように。

祈ります。

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