「小道たちを道に」

2016年12月4日(待降節第2主日)

マタイによる福音書3章1節~12節

 

「主の道路を整備せよ。まっすぐに造れ、彼の小道たちを。」とイザヤが預言したように、洗礼者ヨハネは、小道たちを道路にする働きのために、遣わされたと言われている。

小道とは、ギリシア語でトゥリボス。人が歩くことで自然に踏み固められてできた道のことである。主の道路とは、ギリシア語でホドス。整備造成された道。主の道路を整備するとは、自然にできた小道たちをまっすぐに造ることであり、まっすぐにされた小道たちが道路となるようにすることである。

小道は、人間が作る道であるが、それぞれが神に向かおうと歩み続けることでできた道である。律法を行うことによってできた道があり、祭儀を行うことによってできた道もある。正しい人間だと思う人が歩く道があり、罪人が罰を受け悲しみながら歩く道がある。それぞれの人間たちの思いが造る道が小道である。この道を歩けば、神に至るだろうと思って歩いて行く道。そのような道は、さまざまな方向に、曲がりくねって進んでいる。本当に神に行き着くと思っている人間もいれば、これで良いのだろうかと思う人間もいる。迷いながらの道があれば、まっすぐに歩いていると思う道もある。人間たちが歩く道は、人間から神につながろうとする道である。しかし、「主の道路を整備せよ」と言われる道路は、主である神の方から造られていく道路である。これは神が整備する道路であり、人間が整備できないがゆえに、神の介入によって整備される道路なのだ。

では、小道たちをまっすぐに造るのは、いったい誰なのか。人間たちが造ることができないのだから、神である。神が遣わしたヨハネがその道をまっすぐに神の大通りへと向かわせるように造る。小道たちが道になるように、曲がりくねった道がまっすぐになるように、ヨハネは働くのである。もちろん、その道は人間がまっすぐにするのではない。神がまっすぐにするのである。神の言がまっすぐにする道が、主の道路となっていくのである。

この道路整備は、神の言によって行われる。ヨハネはそのために遣わされた。ヨハネは、一人ひとりの曲がりくねった道を、整備道路へとまっすぐに整える。ヨハネ自身がまとめるのではないが、ヨハネが語る神の言が一人ひとりを整備道路へと組み入れていく。ヨハネがこのように呼ばわっても、人はどうしても自分の小道をまっすぐにすれば良いと考えてしまう。それぞれの小道をまっすぐにすれば、これが主の道路なのだと思い込む。自分がまっすぐにするのだと思い込む。これが人間の罪である。

洗礼者ヨハネが「悔い改めの相応しい実」を語っているのは、人間が結ぶことができる実ではなく、神が結ばせ給う実のことである。「良い実を結ばない木は、すべて切り倒される」とヨハネは語っている。それゆえに、「悔い改め」を求める。悔い改めるということは、わたしは良い実を結べない木なのだと認めることなのである。そのとき、わたしが悔い改めに相応しい実を結ぼうなどという傲慢は生じない。むしろ、神に願い求めるであろう。相応しい実を結ばせてください。良い木にしてくださいと。このように祈る者とされたとき、悔い改めに至っている。小道たちがまっすぐにされている。神のことばの前にまっすぐにされた小道として造られる。そのとき、神によって造られた整備道路として整えられるのである。小道たち一つひとつがまっすぐにされ、整備道路が造られ、主が来たり給う道路とされて行くのである。

我々人間は、それぞれの道を歩いている。それぞれの小道を歩いている。自分の方から神に近づこうと歩いている。それは罪を犯した者としての小道である。罪を犯した者が、自分の力で、自分の道を造り、その道を後に続く誰かが踏み固め、小道はいくつもの道として造られていく。神に近づく道を求めた多くの人によって、たくさんの小道ができた。その小道は、これこそ主の道路だと主張するような小道である。ファリサイ派やサドカイ派も同じように小道を造っていた。それぞれに違う小道を。しかし、彼らもそれが確かな道なのか不安なのである。それで、ヨハネのもとにやって来た。彼らは自分たちが造る道を、もっと良い道にしようと近づいて来た。それゆえに、ヨハネは言う。「まむしの子らよ、誰が教示したか、神の怒りから逃れることを」と。彼らは自分の道をもっと整えれば、神の怒りから逃れられると考え、やって来たのだ。実は、自分が造る道を放棄しなければならないのに。

人間が造る道を放棄して、神が整え給う道を神に従って整えること、これが悔い改めであるとヨハネは語っているのである。あなたが神に近づこうとする道は、放棄されなければならない。あなたの小道は放棄されなければならない。あなたは迷いつつ歩いているからである。あの人が言うことが良さそうだとあちらに行き、この人の言うことも良さそうだとこちらに行く。こうして、曲がりくねった道を延々とあなたは延ばしているのだ。この道は、人間の造る小道。人間が歩くことでできる小道。小道は、人間の思惑でできていく。自分がどうしたら怒りから救われるのかを考えて、造られていく小道。人間が造る道は、人間の思惑に満ちている。それゆえに、ヨハネはファリサイ派やサドカイ派に言うのだ。「誰が教示したか、神の怒りから逃れることを」と。人間に聞く限り、小道はまっすぐにはならない。神の言をありのままに聞くとき、まっすぐにされる。まっすぐに造るのは人間ではなく、神の言である。我々の思惑ではなく、神の意志である。神が我々を救いたいと思ってくださる神の意志こそが、我々を主の道路へと導くのである。

ヨハネは、この働きのために遣わされた。イエスが造り給う道へと導くために、遣わされた。罪人が主の大通りを歩くことができるということを、イエスが告知する。そのお方の方へ人々を向けるために、ヨハネは来たのだ。主の大通りを歩く罪人は、自分からその道を造るのではない。主が造られた大通りを歩くことを赦されるのである。罪人であることを認めた者が歩くことを赦される大通り。これこそが、イエスが整えてくださる十字架の道である。

十字架の道は、人間が造った道ではない。神に近づく道であるが、人間が造った道ではない。神が造り給うた主の道路である。主の大通りである。この道へと、それぞれの小道たちがまっすぐに集合させられるとき、キリストの十字架の道が神によって造られる。キリストの十字架の道は、人間たちの小道たちをまっすぐに主に向かわせる道である。それぞれの小道たちを捨てて、十字架の道に集合するとき、教会となるのである。

我々人間が、造る道は他者を排除する道である。それゆえに、小道たちはいくつも造られていく。しかし、主が造り給う道路は、すべての小道たちを集合し、すべての者が無償で歩くことを赦される道である。この道の通行許可証は必要ない。誰でも歩くことができる。何の功績がなくとも、まして罪人であろうとも歩くことができる。ただ、招かれることを受け取るだけで、歩くことができる道路。それがキリストの十字架の道であり、主の道路なのである。この道路へと小道たちを向かわせるために、ヨハネは遣わされた。それゆえに、ファリサイ派やサドカイ派に彼は言うのだ。「神には可能なのだ、これらの石たちからアブラハムの子たちを起こすことが」と。従って、あなたがたが造っている道は、小道に過ぎず、小道は人間の道に過ぎないとヨハネは言うのだ。むしろ、悔い改めて、神が造り給う整備道路を受け入れ、歩くとき、あなたがたは救われるであろうと語っているのである。

主の整備道路は、小道たちを道にする整備道路。主の大通り。十字架の道。この道へと我々の小道たちがまっすぐにつながれるために、キリストは十字架を負ってくださった。そのために、乳飲み子として地上に生まれ給うた。クリスマスに生まれ給う嬰児は、人間の大通りからは離れた馬小屋に生まれた。しかし、そこに主の大通りが造られる。この大通りを歩き続けるようにと、主はご自身のからだと血を与えてくださる。主の造られた道を見失い、自分の小道を造ろうとするわたしが、再び大通りを見出すために、与えられる恵みを感謝していただこう。

祈ります。

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