「恐れを越えさせる言」

2016年12月11日(待降節第3主日)

マタイによる福音書1章18節~25節

 

「恐れるな、マリアをあなたの女として傍らに取ることを。」と天使はヨセフに言う。ヨセフはいったい何を恐れているのか。彼が正しい人、義人であるならば、恐れる必要はない。いや、義人であるがゆえに、義人と呼ばれなくなることを恐れているのではないのか。しかし、彼は「彼女をさらし者にすることを意志しなかった」とも言われている。むしろ、マリアがさらし者になることを避けようとしたと言われているのである。果たして、ヨセフの心はどちらだったのだろうか。ヨセフがマリアを妻として迎えるならば、結婚前に妊娠したということが明らかになる。これがさらし者にすることになると考えたのであろうか。反対に、結婚しなければ、マリアは誰の子か分からない子を一人で産むことになる。この方がもっとさらし者になるのではないのか。

義人であろうとも、正しい判断ができないのは、人間を恐れることによってである。マリアをさらし者にすることを意志しなかったということは、さらし者になっても自分が守るというところに立てなかったからである。どうしてなのか。人間を恐れていたからである。マリアをさらし者にしないように考えた結果、密かに追い払うという結論になった。これは、結局自分の義人としての立場を守るために、マリアを追い払うことなのではないのか。「決心した」と訳されている言葉は、ブーロマイというギリシア語で、自分で考えて決めるという意味である。つまり、ヨセフはマリアと話し合うことなく、自分で考えて勝手に決めたのである。これが義人、正しい人と言えるのであろうか。自分勝手な人間ではないのか。ヨセフは結局人間を恐れて、自分で考えて、自分で決めたのである、マリアを蔑ろにして。

人間は皆このようである。義人と言われていても、結局自分勝手な人間なのである。自分で考えることが悪いわけではない。しかし、マリアのことを全く考慮しないで、自分で決めるのである。それも、恐れによってそうしてしまう。これは、アダムの罪と同じである。彼は、エヴァの罪を自分が被ることを避けようとして、園の木陰に隠れた。女も隠れた。そして、神に禁断の木の実を食べたことを悟られたとき、女の所為にして、女を一緒にいるようにしてくれた神を非難した。自分の罪を認めることなく、他者を批判するようになった。これが罪なのである。ヨセフも同じ罪を持っている。この世において義人と言われる存在は、結局人の評価を気にして、人間を恐れるのである。こうして、神を暗に批判している。

ヨセフが義人であると言われているのは、この世における義人の罪深さを最初に語るためであろう。この世における義人とはこれほどに罪深く、自分で考え、自分で決め、自分を守るのであると語るためであろう。そのような義人は義人ではないということを語っているのが、イエス誕生の際に起こった出来事である。それゆえに、天使は言うのだ。「彼は彼の民を救うであろう、彼らの罪たちから」と。ヨセフも罪を持っていること、原罪という病にかかっていることが最初に語られるのである。イエスの父ヨセフの罪があからさまになったのは、マリアがヨセフに聖霊によって身ごもったことを伝えたときだった。マリアから聞かされて、ヨセフは密かにマリアを追い払うことを自分で考え、自分で決めたのである。「縁を切る」と訳されている言葉は、アポリュオーというギリシア語で「分離して解く」という意味であり、「追い払う」ことなのである。マリアを追い払うことを自分の意志で決めているヨセフであった。そこまでしてしまうヨセフは、よほど世間の男たちから馬鹿にされることが恐ろしかったのであろう。

ところが、そのヨセフに夜の夢で天使が現れ、「恐れるな」と語りかけたのである。ヨセフが人間を恐れていることを神はご存知であった。ヨセフが恐れゆえに、マリアを追い払おうとしていることを神はご存知であった。神は、ヨセフの恐れを取り除こうと、天使を遣わした。天使はヨセフの恐れを如何にして取り除いたのか。ただみことばによってである。イエスの誕生が、神の約束の言の実現であることを語ることにおいてである。天使の言葉を聞いたとき、ヨセフは思い起こした、インマヌーエルの約束の言を。ヨセフが聖書を良く読み、預言の言葉を知っていたがゆえに、彼は義人と言われていたのでもあろう。この世における義人の両面がここで語られている。しかし、最後にヨセフにマリアを追い払わない決断をさせたのは、神の言、約束の言、インマヌーエルの預言の言葉であった。このとき、ヨセフは真実に義人として生きたと言える。神の言によって、人間への恐れを克服したとき、ヨセフは真実に義人としてマリアを迎え入れたのである。こうして、イエスの父となった。

ヨセフに恐れを越えさせ、イエスが生まれる環境を整えたのは、神の言である。神の言こそが神のご意志であり、すべてをご意志に従うように整える力ある言なのである。ヨセフは、自分で考え、決めたことを覆した。自分で考え、決めたことは、神の言を妨げると認識したがゆえに、覆した。この瞬間に、ヨセフは人間への恐れを越えた。神の言の前に、ひれ伏したヨセフは、神の言に包まれ、神の言に支えられ、神の言に力を与えられた。こうして、イエスは真実に「民を救う」救い主、「主は救い」という名を持つお方として、マリアの胎に育まれたのである。

我々人間は、この世で正しい人間だと認められていても、究極的状況において正しいことを選択することを恐れてしまう。他人にどう思われるかを考えるとき、怖くなってしまう。正直に自分と向き合うことを避けて、自分を誤魔化して、他者を騙し、守るべき存在を捨ててしまう。こうして、自分が義人であることを失わないようにして、義人ではなくなってしまうのである。これは我々の罪が犯させることである。我々の罪深い思考が悪魔に支配されているがゆえに、こうなってしまうのである。誰もここから逃れることはできない。信仰を与えられなければ、神の前に自らの罪を告白することはできない。そして、罪を犯しても、悔い改めることができない。ヨセフは罪を犯した。マリアを密かに追い払うという決断をした罪を犯した。しかし、神の言がヨセフの恐れを閉め出したとき、彼は悔い改めて、マリアを迎え入れたのである。人間は罪を犯す。しかし、犯した後、悔い改めるか否かで信仰に生きているか否かが分かれる。ヨセフは自らの罪深い思考を捨てて、神の言、神の約束に信頼した。そこにおいて、罪を犯したヨセフが真実に神に従う義人として立てられたのである。こうして、主は救いという名を与えられたイエスが生まれることになった。

イエスは、インマヌーエルだと預言されていた。インマヌーエル「我らと共なる神」。イエスは罪深き者と共なる神として生まれた。罪深きヨセフと共なる神として生まれた。罪深き人間を救う救い主として生まれた。イエスが最初に救ったのは、ヨセフであった。イザヤの預言の言、神の言がヨセフの恐れを越えさせる力となった。そこから生まれたイエスこそ、ヨセフと共なる神、インマヌーエルだったのだ。インマヌーエル、我らと共なる神。イエス、主は救い給う。ヨセフを救い、マリアを救い、ご自身を救い給うたイエス。イエスは、マリアの胎にあるときから、救い主。ご自身を救い給う救い主。ユダヤ人哲学者フランツ・ローゼンツバイクが言うように、「神は、人間による世界の救済と、世界における人間の救済とにおいて、自分みずからを救済する」のである。それが「すべてにおいて一」である神ご自身の完成であるとローゼンツバイクは言う。

イエスは、マリアの胎にあるときから救い主。ヨセフとマリアを救い、ご自身を救い主として救い給うたお方。このお方において、すべてが一なる神のうちに救われるのである。その力は、神の約束の言。インマヌーエルの言。ヨセフの恐れを越えさせた言。神の約束の言の実現であるイエスにおいて、すべての恐れは克服されている。死を克服し、働かなくしたイエスの十字架において、すべての恐れは克服されている。そのために地上に生まれ給う救い主を喜び迎えよう。あなたのために生まれるお方イエスを迎えよう。

祈ります。

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