「主の名の力」

2016年12月18日(待降節第4主日)

ルカによる福音書1章46節~55節

 

「ちょうど、彼が語った通りに、わたしたちの父祖たちに対して」とマリアは最後に歌う。すべては、神が語った通りであると。神が語るということ自体に世界を変革する力があると歌うのだ。神が語るのは、神の意志。神が語るのは、神の心。神が語るのは、神の神であること。聖なること。神の名は聖とマリアが歌う通り。

神の名は聖。聖であるとは、神が神であること。神が神として変わらずにあり続けてくださること。神が人間の思いに左右されることなく、ご自身のご意志を実現し給うこと。神の語り給うこと。主の名は聖とは、語ったことを曲げることなく、語った通りに実現し給うということ。神ご自身は変えることはない、ご自身の意志を。変えることなく、語り続けておられる。語り続けているがゆえに、語られたことは実現する。それが神が聖であること。神の名が聖であること。主の名の力なのである。

名は名を持つ存在を表していると我々は思っている。しかし、主の名は、表しているのではなく、主の名自身が聖である。主の名は主を表しているのではない。主そのものである。我々人間が名をつけるとき、希望を託す。しかし、人間は与えられた名を汚すものである。与えられた名のままに生きる者はいない。人間は、名を汚すことで自分を生きている。与えられた名に相応しく生きないことで、与えられた名を汚し、自分らしく生きると考える。そう考える自分が、決して自分らしいわけではないのに。自分を汚しているだけなのに。高慢な者は自分の名を汚して、自分を生きていると思い上がる。与えられた希望ではなく、自分が造り出す希望を生きようとする。聖なるお方は、そのような存在を引きずり下ろすことで、真実の自分に向き合うように導かれる。聖である名を持つお方は、与えられた名に従って生きるようにと求められる。神が語るのはそのような意志。与えられた通りに与えられた人生を生きるようにと語り続ける神は、聖なる名を持っておられる。

このお方の名を聖とマリアは歌う。歌うマリアは、自らの低められていることに目を注ぎ給うお方を知っている。低められている自分が真実に自分であると知っている。低められている自分を、すべての世代が祝福すると歌う。それは今から始まると歌う。どのような今なのか。低められていることを受け入れたマリアの今である。それはマリア自身があるように神によって置かれた今。マリア自身が生きるべく置かれた今。それゆえに、マリアの魂、マリア自身が「主を大きくする」と歌う。マリアは、自らが低められていることを主が置き給うたことと受け入れている。それゆえに、マリアの見る世界は、他者の見る世界とは違う。神が支配し、神が善きもので満たし給う世界。神が、ご自身の意志を語られた通りに実現し給う世界。マリアにとって、苦しい未婚の妊娠も、神の意志と受け入れる世界。主の御業が貫徹する世界。低められているのは人間によって。しかし、神によってそこに置かれている。マリアはそれを受け入れる。それゆえに、マリアの世界は神の意志が貫徹する世界として展開していく。そこに彼女の喜びがある。

マリアの信仰は、どこから来たったのか。彼女のうちに宿ったイエスから。彼女のうちに生き始めたイエスから。彼女を祝福の初めとした神から。低められることを神の祝福と受ける幸いを彼女は生きている。彼女の霊は、喜び称える。可能とする力ある方、その名が聖である方を。彼女の低められていることを神の祝福と受け取る信仰を与え、彼女をイエスの母とすることの可能なるお方を。マリアは、この後、如何なる境遇にあろうとも主に感謝し、主を喜び、主に向かって生きた。イエスが十字架の上で死んだときも、神の意志として受け入れた。大切な息子の無残な死を神の意志と受け入れた。この受け入れを可能とする力が、主の名の力である。聖である方の力である。神は聖であるご自身の力を、御名を信じる者に与え給う。十字架の主もご自身の力を与え給う。その始まりは、マリアに与えられた信仰。マリアのうちに宿り給うイエスの力。

我々人間は、常に自らを汚す。与えられた名を汚す。希望を汚す。そして、世界を汚す。他者を低め、他者の足を引っ張り、他者を貶める。自分を高めるために、自分を認めさせるために、自分を肯定するために。我々が自分自身の名を汚し、神を汚すのは、もっと価値ある存在になりたいと思い上がることによって。今置かれたところで、置いてくださったお方に従って生きることなく、自分の心の思考の傲慢さに従うとき。我々は、自らを汚していることを知らずに生きている。自分の心の思考が如何に傲慢であるかを認めない存在は、自分を汚している。創世記8章21節に主が語る通り、「人間の心のイメージは幼き日から悪」なのだ。自分の心の思考を悪だと思わない人間が、自分の思考によって自分を汚している。罪深き存在は、自分を汚す存在。自分だけではなく、世界を汚す存在。罪に引きずり込む存在。罪を蔓延させる存在。このような罪を心の思考のうちに持っている人間が自らをあるがままに認めることはできない。自らを繕い、善きものであるかのように外見を飾る。それが心の思考の傲慢さである。

富める者も同じく、他者を搾取し、自らの腹を満たす。与えることを知らず、貯めることだけを求める。貧しさを悪と思い、富を善と言う。富み栄えているかに思えて、心の思考は汚れていく。愚かな罪人がますます罪を重ねる。権力を手に入れて、自らの力を誇示する。力を誇る者が自らを輝かせると思い上がる。この世の輝きにおいて、闇を造り出す。闇の中に世界を引きずり込み、闇を光とする世界を造り出す。彼らが闇だと貶めた片隅に、イエスが生まれる。彼らが闇に閉じ込めた居場所のないイエスに、いのちが輝く。マリアの胎に宿ったイエスも、マリアと共に低められた者。十字架に至るまで低められた者。この世の輝きから遠ざけられた者。この世の栄光が失われた十字架において、その名は聖であることを生きるイエス。

マリアの低められることに目を注ぎ給うお方は、ただマリアの低さを認めることにおいて、力を与えた。我々は、見てもらうことで力を得る。神の目が力を与える。神の目は、その名の聖なるお方の目。低められていることを聖とする眼差し。低められてこそ、聖を生きると語り給う眼差し。十字架こそ、栄光なりと語り給う聖なる力。

マリアの魂が崇め、大きくするのは主。マリアの魂のすべてとなり給うお方。マリアの魂は、主のもの。主が、低められたマリアの魂のすべてとなる。マリアになされた偉大なこと、大いなることは、マリア自身が如何なる状況でも生きて行く力を与えられたこと。マリアの低さに目を注ぎ給うお方は、マリアが低くとも見てくださる。低くあることを受け入れるようにと見てくださる。低く生きることを可能とされたマリアは、人間を恐れることはない。ただ主を畏れる。

ただ主の前にひれ伏すことが、人間への恐れを閉め出した。主を畏れる者は、誰をも恐れることはない。如何なる状況にあろうとも、マリアには主の名の力が注がれる。主を畏れる者は、主の名の力に可能とされる。世界すべてが可能なるお方の力に満ちていることを知る。空腹であろうと満腹であろうと、貧しかろうと富んでいようと、神の前にひれ伏す畏れる者は、振り回されることなく、ただ神の聖なる御名の中で生きる。神が生かしめ給う自分を生きる。今日、マリアが讃美する力は、十字架の主の力。マリアの息子、イエス・キリストの力。主は救いという名を持つキリストの力。

クリスマスに生まれ給うお方は、主の名の力に満ち溢れ、聖なる力を与え給う。我らのために、十字架の死を引き受けたお方。このお方の体と血をいただく我らは、このお方の聖なる名の下に生きる。あなたのうちに生まれ給う聖なるお方、イエスを喜び迎えよう。この世の闇に降り、光となし給うお方があなたにご自身を与え給う。あなたのうちに生まれるために十字架を負い給うたお方を、感謝して迎えよう。聖なる名の力に満たされるために。

祈ります。

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