「恵みと真理の充溢」

2016年12月25日(降誕祭)

ヨハネによる福音書1章1節~14節

 

「そして、ロゴスが肉として生じた。彼は幕屋を張った、わたしたちの内に。わたしたちは見た、彼の栄光を、父の側にある独り子のような栄光を、恵みと真理の充溢なる栄光を。」

福音書記者ヨハネが語るクリスマスは、恵みと真理の充溢である栄光を見たことである。それはどのような栄光なのか。父の側にある独り子のような栄光である。父の側にある独り子とは、神の独り子のような栄光である。キリストは神の独り子のように生きることで栄光を現しているとヨハネは語る。その栄光は、恵みと真理の充溢なのだと語る。

恵みとは、神が与え給うものであり、我々はただ受けるだけである。真理とは、隠れなくあることであり、神があらしめるようにあることである。これを隠してしまうとき、我々は闇を作りだしている。恵みと真理とは、あくまで神のもの。神が与え、神が造り、神が保持されるもの。これを我々人間は闇にしてしまった。しかし、神の独り子、父の独り子であるキリストが来たり給うたことによって、捕まえることのできない光、輝きを闇はどうすることもできなくなった。光に照らされるままに照らされるしかない。それにも関わらず、キリストの言を聞かず、キリストの現れを否定し、キリストの光から隠れてしまう。こうして、人間は自分の世界を保持しようとする。光に照らされるままに生きることを拒否する。光を捕まえることができないのだから、逃げるしかない。こうして、隠れること、真理を否定することが生じる。これが人間の罪である。

我々人間は、造られたままであったならば、恵みと真理の充溢を生きていたであろう。ありのままに自分を生き、与えられるものを感謝して生きていたであろう。そのときには、溢れるばかりに恵みと真理は我々を包んでくれていた。それに気付かず、自分の世界を求めた人間。アダムとエヴァの堕罪において我々の世界に来たった闇。光から隠れてしまう闇に生きるようになった人間の世界に、神は独り子を送り給うた。光を送り給うた。この光は、如何にして我々を照らすのか。言として照らす。ロゴスとして照らす。我々の内に幕屋を張ったロゴスとして照らす。言ロゴスをそのままに受け入れる者は、ロゴスによって自らを照らされ、ロゴスによって命を与えられる。ロゴスのうちに命があるからである。ロゴスによって造られた世界は、ロゴスによって命を与えられ、ありのままの自分自身を保持される。ロゴスを受け入れない者は、闇に留まる。自らの闇に隠れる。自らを省みない者は、自らを誤魔化し、自らの罪の闇を認めない。こうして、我々は闇に沈み、罪を生きる。

それでもなお、この罪の闇に、ロゴスは幕屋を張る。神の独り子が幕屋を張る。闇の中に沈む光として、幕屋を張る。幕屋はテント。移動可能な住まい。言ロゴスが肉として生じるとは、移動可能な住まいとして生じるということである。イエスというお方として、我々の内に移動可能な住まいとして生じる。言が肉となるとは、一人ひとりを照らし、命を与えつつ、生きてくださるということ。我々は我々という集団として光を受け取るのではない。一人ひとりが受け取るとき、受け取った者たちの集まりである我々が生じる。我々は我々という塊ではない。一人ひとりの我々である。しかし、バラバラではない。一人ひとりのわたしが我々として一つにされる。一人がいなければ我々はない。我々がなければ一人はいない。我々と一人とは互いに補完し合うものとして生きる。その根源は、父の独り子。

父の独り子は一人しかいない。一人しかいない父の独り子の栄光、輝きが我々を照らす。我々として照らす。我々の中に生かされているわたしという一人が照らされることを受け取ることで、我々は照らされる。受け取らない者が一人もいない我々として照らされる。それゆえに、我々は一人として光を受けなければ我々とはならない。しかし、我々となるために受けるのではない。ただ一人受ける者が我々とされるのである。このわたしが独り子として独り子の光を受ける。独り子の言を聞く。独り子の命をいただく。恵みと真理の充溢をいただく。いただいた恵みと真理は溢れ出て、隣人の溢れと結びあわされる。充溢が結ばれるとき、我々が生じる。

我々は、一人ひとりが言ロゴスに耳を傾ける。ロゴスを聞き、自らを省みる。自らの罪を見る。ロゴスはわたしがわたしとして聞く言。神の言はこのわたしが聞かなければならない言。このわたしの魂で聞かなければならない言。誰かと一緒に聞いていても、わたしの魂が聞かなければならない。わたしは一つの魂として、耳を傾ける。わたしの魂に語りかける言を聞く。「あなたの闇から出てきなさい」とロゴスは言う。「わたしはありのままにここにある」とロゴスは言う。「わたしは飼い葉桶にあり、十字架にある」とロゴスは言う。「誰にも認められずともわたしはある」とロゴスは言う。「そこにある命としてわたしはある」と言う。あなたは、このロゴスを聞かなければならない。聞かないならば、闇に沈むだけ。闇の中から光の下へと出ていく必要はない。ただ照らされることを受けるだけである。

あなたが沈んでいた闇にご自身を沈め給うたロゴス。あなたが隠れていた闇にご自身の幕屋を張ったロゴス。あなたの闇に光として来られたロゴス。このロゴスこそ、イエス・キリスト。神の独り子。命の光。神と始めにあったロゴス。神ご自身であるロゴス。神ご自身が肉の闇を身にまとい、闇に隠れるわたしのために、肉となって生じてくださった。肉の闇から解放するために。

その栄光は十字架。飼い葉桶から十字架に至る生涯を光として生きたお方。闇から闇へと生きたお方。認められず、蔑まれ、苦しめられたお方。にもかかわらず、光であるお方。我々は、認められず、蔑まれ、苦しめられるとき、同じように他者を引きずり込む。他者を認めず、蔑み、苦しめることで、自分が何者かであると思えるから。しかし、わたしはわたし。何者でもない。神が造られたのは何者でもないわたし。何者かになるために、闇を造りだし、閉じこもるわたし。そのわたしを照らす光は、あなたはあなたなのだと照らし給う。他の何者でもないあなたなのだと照らし給う。栄光の輝きは、神が神である輝き。神が神であることを生きること。わたしが神の被造物であると生きること。わたしが神に造られたように生きるとき、神は栄光を受ける。キリストは栄光を生きる。あなたがあなたであることを生きるために、十字架の上でご自身を生きたキリスト。このお方を神の独り子と信じる信仰を生きるとき、わたしはわたしを生きる。

如何なるときも、如何なるところでも、如何なる境遇であろうとも、わたしは変わりなくわたし。神が造り、保持し、導き給うわたしを生きる者は、光に照らされている。ロゴスが生きている。ロゴスがあなたの内に幕屋を張って生きている。ロゴスは、あなたを生かし給う神の力。十字架の言こそロゴス。十字架に死んで、命を与え給うロゴス。このお方は、すでにあなたのうちに来ている。あなたのうちに幕屋を張ろうと来ている。あなたはただ受け入れるだけ。ロゴスを信頼して、受け入れるだけ。ロゴスに満たされて生きるだけ。そのとき、あなたの内に恵みと真理の充溢が生じる。あるものがあるように生き始める。神が造り給うたあなたが生き始める。あなたの闇が消え、光に満たされる。あなたは、闇に隠れる必要はない。あなたはあなたとして光となる。神はあなたをそのように造られたのだから。

一人ひとりの魂が光を、ロゴスを受け入れるとき、世界は光に満たされ、恵みと真理の充溢を生きるであろう。被造物全体を闇に引きずり込んだわたしの闇が光となるとき、世界は光に満たされる。

言は肉となって生じ、我々の内に幕屋を張った。

クリスマスに生まれ給う嬰児は、神の言、神のロゴス、神の独り子。あなたのうちに生まれる神の光。その光があなたのうちに留まり続けるようにと、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。キリストがあなたのうちに生きてくださる神秘を与え給うキリスト。感謝して、受け、光に照らされ、生きて行こう。あなたは神の子、神の愛によって造られた存在なのだから。

祈ります。

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