「未来への言」

2017年1月1日(新年礼拝)

ルカによる福音書13章6節~9節

「未来へと実を結ぶかもしれません」と園丁は主人に言う。「未来」という言葉は「来年」という意味で訳されているが、本来は「未来」という意味である。未来とは、来たるべきものでありつつ未だ来たっていないものである。イチジクの木が実を結ぶということも、「来たるべきもの」である。しかし、未だ実を結んでいないので「未だ来たっていない」。それでも、イチジクの木自体には「未だ来たっていない」ものがあると園丁は言うのである。来たっていないとしても、あるがゆえに来たる可能性を持っている。それゆえに、園丁は「未来へと実を結ぶかもしれません」と主人に言うのである。

これは確実なことではない。園丁は「かもしれない」というのだから、確実に実を結ぶとは確定されていない。しかし、実を結ぶべく作られたイチジクの木なのである。その未来はどこにあるのか。造られた神の許にある。神が造ったのだから、神の意志に従っているならば、必然的に実を結ぶであろう。しかし、従っていないならば結ぶことはない。それでも、従う余地が残されていると園丁は言う。その余地に未来があるのだと言うのである。

しかし、確実ではないことに余地を残さず、他の確実な木を植えた方が良いではないかと主人は言うのだ。確かにそうであると、この世の人間は考える。確実ではないことに賭けるなどということは愚かなことだと考えるからである。しかし、他の木を植えたところで、その木が確実に実を結ぶということは確実ではないのである。何故なら、それは未だ来たっていないことだからである。それは木の問題ではなく、土の問題かも知れない。その木自身が、神が与えた未来を受け入れていないかも知れないが、その木を植えられた土自身が木を受け入れていないのかも知れない。主人は、実を見つけないということだけにこだわっている。木が問題なのか、土が問題なのか、あるいは気象の問題なのか。その他の問題もあるのか。これはここでは取り扱われていない。それでも、主人は余地を残さないことを園丁に求める。ところが、園丁は未来へと実をもたらすかもしれないことに賭けるのである。これが神の心であるとイエスは語り給う。ここには、神が裁き主であるという思考からは理解不能な言葉が語られている。

この言葉の前に、イエスは事件や事故で死んだ人たちが他の人間よりも罪深い者だったと考えている人々に、考え方の変更、心の向きの変更である悔い改めを勧めた。この悔い改めとは、心の向きを変えることであり、価値観の変更、枠組みの変更である。神が裁き主として君臨する世界から、神が憐れみをもって臨んでおられる世界への価値観の変更。これは、我々人間が神に気に入られるように生きる世界から、神が我々を憐れみ、造り替えようとしておられる世界への移行である。人間から神に向かう世界から、神が人間に関わり、造り替え給う世界への移行である。その移行において、我々はすべての世界価値に変更を迫られる。すべては神が為し給う、神の憐れみの御業であると。

それまで、我々が取り憑かれていたのは、神は裁くために君臨し、我々が神に気に入られる業を行えば受け入れられ、行わなければ裁かれるという価値観である。このような価値観の中では、神は裁き主であり、我々はその前で震えおののくしかない存在である。この謙虚さに生きるならば、まだしも、震えおののきつつも、我々はどこまでも気に入られることを求めて、努力し、そうなるべきことを確実にしようと躍起になっていたのだ。その結果、そうなっていない人間を蔑み、排除し、自分たちだけが良い人間であると自負していた。ところが、神はそのような人間を裁き給うお方である。自分を正しいとし、他者を排除する人間こそ、神に裁かれるべき存在である。自らが確実に神に従っているなどと思い上がる人間こそ、罪の深みに落ち込んでいるのである。そして、他者から未来を奪い取る。これこそ、イエスのたとえにおける主人の姿である。

ところが神は、園丁として世界に、一人ひとりに仕えてくださるとイエスは言うのだ。一人ひとりをご自身がお造りになり、そこに植え給うた木の未来を守り給うお方が神なのである。このお方は、最後の日まで忍耐して待ち続けてくださるお方である。終末において、決定的にその結果が判明する。そのときには、「切り倒してください」と園丁は言うのだ。本当に悪い木だったのだからと。悪い木であることを受け入れなかったのだからと。悪い木である自分を受け入れず、良い木にしようと尽力する園丁の心を蔑ろにしたからであると。もともと悪い木であったということは、最後に分かる。未来において分かる。しかし、今は分からない。それゆえに、「その木を赦してください。今年もこのままに」と園丁は主人に言うのである。

「その木を赦してください」と園丁は言う。毎年こう言ってきたことであろう。「その木を赦してください」と毎年園丁は主人に言ったのだ。そして、赦してもらった。園丁の心は未来に向かっている。せっかく植えられた木が切り倒されることを望まない。植えられた木には未来がある。期待された未来がある。未だ来たっていないとしても未来がある。園丁はこう言って、主人の怒りを宥めてきたのだ。この園丁の心こそ、神の憐れみ、神の愛である。

我々人間は、神に造られた存在である。神が未来を我々のうちに充填して、この世界に置いてくださったのだ。それゆえに、神は我々の未来を含めて、植えてくださった。未来のないものを植えるはずはない。未来を期待されているがゆえに、我々はこの世にある。我々の存在のうちに未来が内包されいている。それこそが、我々が神に造られた存在であるということである。神は、如何に罪深く、神の意志に従わず、神の道を離れてしまうような存在であろうとも、その未来を信じてくださる。何故なら、未来は神が充填したものだからである。神が充填した未来から離れて、自分がなりたい未来を作りだそうとして、我々人間は罪に陥ったのだ。それでも、神は未来を充填したお方として、我々の未来を信じてくださる。ご自身が満たした未来を、ご自身が捨てるはずはない。ご自身が期待した未来を切り捨てるはずはない。どこまでも、未来を内包させた我々を待ち続けてくださるのだ。これが神の愛、神の憐れみ、神の未来。

哀れな罪人を憐れみ給う神は、ご自身が充填した未来を信じているのだ。ご自身の未来が開くことを信じているのだ。それゆえに、神はキリストを遣わし給うた。ご自身が充填した未来が開かれるようにとキリストを遣わし給うた。キリストは、ご自身が十字架の上に引き渡されようとも、神が充填した未来を守ろうとしてくださった。十字架において、我々の背きの罪が働かなくされる御業を行い給うた。その御業を信じる者が、神の与え給うた未来を生きるようにと備えてくださった。それゆえに、我々はキリストによって、悔い改めの余地を与えられている。

キリストによって罪赦されたということは、今日園丁が言うように「その木を赦してください」と言われていることなのである。その木が良い実を結ぶようになるまで、赦してくださいとキリストは十字架を担い給うた。我々は、キリストによって、このイチジクの木のように未来を守られているのである。我々の未来は、キリストの十字架のうちに守られている。この御業を見上げる者は、キリストの十字架に従って、神の意志を受け入れ、生きるであろう。それが、我々が真実に神に造られた存在として生きることなのである。

2017年という新しい年も、このキリストの十字架によって与えられた年である。我々の未来を信じるキリストによって与えられた年。この年をキリストにあって生きて行こう。キリストが赦してくださいと神に祈り給う祈りに支えられて、悔い改めて生きて行こう。我々が悔い改めて生きることができるようにと、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。感謝して受け、キリストの愛が我々を造り替えてくださる御業にすべてを委ねよう。今年も主の年。あなたを愛し給うお方のうちに生きていこう。

祈ります。

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