「義を満たす」

2017年1月15日(主の洗礼日)

マタイによる福音書3章13節~17節

 

「今は赦せ。なぜなら、このようにして、わたしたちに相応しいから、すべての義を満たすことは」とイエスは洗礼者ヨハネに言う。「すべての義を満たす」と言う。義は満たされなければならないのだと言う。義を満たすことは、相応しいことであると言う。わたしたちに相応しいことであると。イエスとヨハネにとって相応しいと言うのである。どうしてなのか。

すべての義を満たすことはすべての人間がなすべきことである。しかし、相応しいということは、均衡が取れていることであり、適しているということである。イエスとヨハネの在り方と、義を満たすこととが均衡が取れ、適合しているとイエスは言う。イエスとヨハネは義を満たすために生きているということである。

義を満たすことは神の意志である。神が義であるがゆえに、神に従うことが義である。神の義を満たすということは神に従うことであると洗礼者ヨハネは宣べ伝えていた。それゆえに「悔い改めよ」と宣教して、人々に洗礼を施していた。この洗礼は、水に沈めることである。古い自分を水に沈められて、新しい自分に生き始めることである。これがヨハネが宣教していた「悔い改めの洗礼」である。イエスは新しい自分に生きること、神に信頼して生きることを満たしたいと願っておられた。それゆえに、イエスはどうしても妨げようとするヨハネに向かって言う。「今は赦せ」と。義を満たすことは我々に相応しいことであると。義を満たすことで、神に従うことが実現するのであると。

イエスは義を満たす必要がないのではない。イエスが神の子であろうとも、いや神の子であるがゆえに、義を満たすことは相応しいことなのである。イエスが神の子であるがゆえに義を満たさなくとも良いというわけではない。むしろ、率先して義を満たすのが神の子なのである。イエスは神の子の自覚をもってヨハネの洗礼を受ける。それは神の子だから、罪がなく、洗礼を受ける必要がないのではあるが、あえて受けるということである。イエスが自由な意志を持って、自ら主体的に悔い改めるということである。悔い改める必要のない神の子が悔い改めることがあろうかと我々は考えてしまう。しかし、神の子であるがゆえに、悔い改めるという義も自由に行うのである。これが自由にされた者の自由なる選択、自由なる行為、自由なる従順なのである。

自由なる者が、自由なる意志を持って、神に従うとき、完全なる自由を生きている。自らを水に沈められて、罪を悔い改める必要のないイエスが、自由にされた者として水に沈められることを選択する。ここにこそ真実の自由なる行為が生じている。真実の義なる行為が生じている。すべての義が満たされている。これがイエスが洗礼を受ける意味である。

我々人間が洗礼を受ければ罪赦され義とされるというキリストの秘儀は、キリストご自身の義の満たしにおいて生じるのである。キリストご自身が救われるために義を満たすのではないがゆえに、キリストの洗礼は真実に義そのものである。救われるため、神に受け入れられるためになされる業ではないからである。すでに神に受け入れられているキリストが洗礼を受けてこそ、真実に純粋に神への従順を生きていると言えるのである。これこそが義である。義を満たすということは、神への従順を生きることだからである。それは救われるために従順になることではなく、救われているからこそ従順であることなのである。このイエスの義の満たしに従って、我々の洗礼が罪の赦しに至る神の業となるのである。

我々人間が水に沈められること自体が神の意志への従順を示す。イエスが満たし給うた義の中へと我々は沈められる。イエスが満たし給うた義が我々のものとなる。我々の罪がキリストのものとなる。これは、使徒パウロがローマの信徒への手紙6章3節で、「キリスト・イエスのうちへと沈められたわたしたちはだれでも、キリストの死のうちへと沈められたのだ」と語っていることである。さらに8節で「もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら、わたしたちは信じている、わたしたちはまた共に生きるであろう、彼に」と語っている。我々はキリストが満たし給う悔い改めの義のうちへ、キリストと共に沈められ、キリストが起こされた義のうちへ共に生きるのである。そのとき、キリストが天から聞いた声が我々のものとなる。「わたしが喜ぶ、私の愛する子」という天の父の御声が我々の上に注がれる。これこそが義の御声である。

キリストの義のうちへ沈められ、キリストの義のうちに起こされる。我々の洗礼は、今日キリストが満たし給うた義を受けることである。キリストによって満たされた義が我々に与えられ、我々は神の意志に従う従順を生きる者とされる。この義は、救われるために我々が満たさなければならないと考える義ではない。キリストがすでに満たし給うた義である。それゆえに、我々が生きる従順は、救われた者としての従順であり、救われるために満たされる義でもなければ、従順でもない。

キリストが「今は赦せ」と洗礼者ヨハネに求めたのは義の満たしのために「今は赦せ」ということであった。義を満たすことがキリストの使命であり、ヨハネの使命である。義を満たさざるを得ない神の子と神の子を証しする者の使命である。この使命に生きたイエスが、最後の十字架の死に至るまで、神の意志に従順であったことも相応しいことであった。今日、ここでキリストが相応しく生きた従順は、十字架の死を引き受けるに至る従順である。その生涯を神の意志にのみ従って生きた従順である。

このキリストが我々の主。我々の救い主。我々の義。神の義そのものであるキリストが今日この世界に現れた。ヨハネの洗礼をとおして、人としての完全なる義を満たしてくださった。キリストのうちに生きる者は、キリストが満たし給うた義を生きる。自分自身が満たすことができない義を無償でいただき生きる者とされる。ここにこそ、我々の救いがある。義を満たし得ない者が無償で義を与えられる。

「すべての義を満たす」とイエスが言うとき、我々は外面的な行為のみを考えてしまう。しかし、「すべての義を満たす」行為者自身であるキリストが義そのものなのである。義そのものであるお方のうちに生きる者は、信仰によって義そのものに包まれる。この信仰も義そのものである。なぜなら、義を無償でいただくと信じる信仰は、神の意志に従う従順を生きているからである。それゆえに、信仰によって義とされるということは、信仰を与えられて神の意志に従う義であるキリストを生きているということである。信仰は行いの主体だからである。

キリストが今日ヨハネと共に満たした義は、キリストが我々に与えようとして満たした義である。ご自分のために満たす必要のない義を、義であるお方が満たした。満たされた義を、信じる者に無償で与えるために、満たし給うた。これが今日、語られている福音である。このお方を信じるとき、我々はこのお方のうちに沈められ、このお方の死のうちに沈められ、このお方と共に生きるのである。洗礼は、信じる者にとって必然であり、欠くべからざるものであると、アウグスブルク信仰告白第9条「洗礼について」において告白されているとおりである。信じる者は必然的にキリストのうちに沈められることに従う。沈められることによって、キリストの義がわたしの義となり、わたしは信仰によって従順を生きる者とされる。

このようになる者としてくださった神の必然が今日イエスの洗礼において始まったのである。改めて、自らの洗礼を思い起こしてみよう。あなたの人間的なものが完全に水に沈められ、霊的なあなたが水から起こされたのだ。それでもなお、身体において生きているかぎり、罪が住んでいる者でもある。キリストは、我々が洗礼という原点を取り戻すために、ご自身を繰り返し与えてくださる。あなたがキリストのものであり、キリストのうちに生きるために、そしてキリストがあなたのうちに生きるために与えられるキリストの体と血を感謝していただこう。義を満たすお方があなたの生の主体である。

祈ります。

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