「光が上った」

2017年1月22日(顕現節第3主日)

マタイによる福音書4章12節~17節

 

「あなたがたは悔い改めよ。なぜなら、天の国が近づいたから。」とイエスは宣教することを開始した。悔い改めよとは、ギリシア語でメタノエイテ。ヌースである理性を変えよという意味である。それは心の質を変えることである。それまで、人間から天の国に入ることを求め、天の国を獲得しようとしていた心を変えて、向こうから近づき給う天の国を受け取るように、心の質を変えることである。人間から神に向かうのではなく、神ご自身が人間に向かってくださることを信頼し、受け入れることである。それが、イザヤが語った預言「光が上った」ということなのである。

「闇のうちに座している民」は、自分たち人間が光となって、良い人間にならなければ、神に受け入れられないと教えられていた。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたように、イスラエルの中央からは汚れた地と見られていた。そこに住む民は、異邦人と接することが多く、汚れていると言われていたのだ。そのようなところに座している民は、救われようのない「死の地域のうちに、死の影のうちに座している」しかない民だったのだ。そこに、光が上ったとイザヤは語った。それがイエスがガリラヤに立ち去ったことだとマタイは語るのである。

イエスは、イスラエルの中央に出て行くことなく、異邦人のガリラヤに立ち去った。洗礼者ヨハネが捕らえられたからである。イエスは、中央に出て行くこと、公に出て行くことを退けて、辺境の地ガリラヤに住んだのだ。それが「光が上った」出来事であったとマタイは、イザヤの預言を引用して語るのである。イエスがガリラヤに立ち去ったことが「光が上った」出来事であると語られている。辺境に光が上ることによって、世界が逆転し、世界が変化したという意味である。それまでの世界において、端に追いやられていたガリラヤにイエスが住むことによって、世界の中心が変わったのである。イエスが住まわれるところが世界の中心である。それゆえに、イエスは中央であるエルサレムに出ていき住むことはなく、辺境であるガリラヤに住んだ。イエスが住むことによって、世界が変容を来した。世界の在り方、世界の様態が変化したのである。

エルサレムは自らが世界の中心であると自負していた。しかし、そこに神の子は住まず、神から離れた民が住むのみ。エルサレムから見れば、神から見放された地ガリラヤに住む民は、闇に座す民、死の地方、死の影に座す民。エルサレムは自らが中心であると思い上がっていたが、イエスの立ち去りによって、世界が変わった。蔑んでいた地が光上る地に変わる。そうして、エルサレムが闇とされる。それでも、エルサレムが闇である自らを自覚するならば、エルサレムの民にも光が上るであろうが。

闇に座し、死の地、死の影に座している自らを認識している存在は、自らの力では脱出できないことを知っている。自らに力がないことを知っている。それゆえに、自らに頼ることができない。ただ、神の憐れみのみに頼るしかない。それでも、神が顧みてくださるとは保証されてはいない。どうにもしようのないところに座している民。異邦人のガリラヤ。闇と呼ばれた地に光が上った。彼らが光に近づくことも、光となることもできなかった。むしろ、光が彼らのために上ってくださったのだ。こうして、世界の主体が転換する。人間から神へと。

世界主体の転換によって、世界そのものが変わったのだ。人間の世界から神の世界へ。人間の判断による比較、切り捨ての世界から、神の憐れみによる受容と綜合の世界へ。すべてが受け入れられていることを受容するとき、我々の世界、我々の見る世界は変容する、神が主体である世界へと。それがイエスの宣教の言「なぜなら、天の国が近づいたから」の意味するところである。

天の国は向こうから我々人間に近づいてくるのである。我々を受け入れようと近づいてくる。しかし、人間はその接近を理解できず、接近する神の国を拒否する。自らが入ろうと躍起になって拒否する。入るには、ただ受け取ることだけが必要なのに。入ろうとして、入るための資格を獲得しようとして、我々人間は天の国を失ってしまったのだ。アダムとエヴァの堕罪は、神の世界において神のようになろうとした結果である。神の世界を我が物としようとした結果、我々人間は罪を犯し、与えられていたすべてを失ったのだ。

失ったがゆえに、何とかして獲得しようとまた躍起になった。こうして、天の国の資格を得る努力をしているということで、自らを資格ある存在と考えるようになった。さらに、他者の資格を否定することで、入る余地が広がるとも考えた。それゆえに、我々は闇を作り出し、そこに他者を閉じ込め、だれも解放されないようにして、自分だけが入ろうとする。このような罪の世界を創り出してしまったのだ。異邦人のガリラヤと呼んだエルサレムの民こそ、闇に捕らわれていたのだ。罪に支配されていたのだ。

イエスは、罪に支配された者たちのところには出て行かず、自らの資格を確保しようとして、彼らが縛り付け、閉じ込めていた闇に座す民のところへと立ち去った。中心地を変えるのではなく、辺境をご自身の中心とすることによって、世界そのものを変えるために。イエスは光として、ご自身を受け入れる民のところに住んだのである。

エルサレムは、洗礼者ヨハネを拒否した中心である。悔い改めることを受け入れなかった中心である。ヨハネも「あなたがたは悔い改めよ」と宣教し、洗礼を施していたからである。このヨハネを拒否した民に向かうことなく、その民から排除され、闇に閉じ込められていた地に、死の影に座すガリラヤに立ち去ったイエス。そこを中心として、世界の様態を変えるイエス。こうして、そこに住む一人ひとりに光が上った。イエスという光を受け入れる闇が光とされるために、イエスは来たり給うた。ガリラヤは、そこから光が上った闇である。

光上る闇は聖なる闇。神の聖なることは、この世の闇において生きている。我々が閉じ込められ、縛られている闇において、神の聖なることが生きている。イエスの十字架というこの世の闇も、聖なる闇であると同じように。この認識を開かれた存在には、世界全体が光となる。イエスの十字架も光である、光そのものであると見える。イエスがガリラヤに立ち去ったことで世界そのものが変容を来したのだ。それゆえに、イエスを中心として世界を見るとき、世界は神の憐れみの世界である。神の恵みの世界である。

神の恵みは資格がない存在に与えられるがゆえに恵みである。神の憐れみは憐れまれる資格を持っていると自負する者は包まない。その人たちは自らの資格によって、神の憐れみを拒否しているからである。神の恵みを拒否しているからである。イエスが宣教した「なぜなら、天の国が近づいたから」という言明は、近づき給う天の国をただ受け取る信仰を求めている。その信仰さえも、キリストの言が起こすものである。それゆえに、全面的にイエス・キリストの言葉に委ねる存在は、闇に座している存在である。自分から抜け出せないと自覚する存在である。だからこそ、そのような民を解放しようと、神は中心から立ち去り、辺境に近づいてくださるのだ。

我々人間は悔い改める必要がある。人間中心、自分中心で考え取り組んでいた世界そのものが、神が主体として働かれる世界であることを受け入れる必要がある。この悔い改めによって、世界そのものの見え方が変わる。闇の世界が、光上った世界として見える。イエスが「天の国が近づいた」と語った天の国の主体を認める信仰を起こされた者には、世界は光である。如何なるところも光である。如何なるときも光である。我々が闇にしてしまっていたのだ。イエスの十字架の死をもたらしたのも我々の闇である。しかし、闇に思える十字架こそが我々の闇に輝く光、神の意志、神の御業、神の聖なることなのである。この世界を始められた主イエスに従って、我々も歩みだそう、神の世界へと。天の国が我々を迎えるために近づき給うことを受け取って、歩みだそう。神は我々を受け入れることを決意されたのだから。

祈ります。

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