「綜合」

2017年1月29日(顕現節第4主日)

マタイによる福音書4章18節~25節

 

「彼は見た、二人の兄弟を、海に投げ網を投げている二人の兄弟を」と言われ、「わたしは作ろう、あなたがたを人間の漁師として」とイエスは言う。さらに進んで、「彼は見た、別の二人の兄弟を、彼らの網を繕っている別の二人の兄弟を」と言われている。しかし、彼らには「人間の漁師としてわたしは作ろう」とは言われていない。ただ「彼は彼らを呼んだ」と言われているだけである。投げ網を投げている兄弟と、網を繕っている兄弟は別の働きをしていると思える。網を投げるがゆえに、人間の漁師と言われているが、別の兄弟たちには言われない。彼らは破れた網を繕う人たちだったから。もちろん、漁師が海では投げ網を投げ、岸に上がれば網を繕うのは当然である。しかし、あえてここで別々の働きをしているように語られていることは、彼らの得意とすることが違っていたと言うことであろう。それゆえに、人間の漁師となる者と整える者とに分けられていると考えるべきである。つまり、彼ら四人は、二種類の働き手として召されたということである。一組は人を取る働き、もう一組は教会を整える働き。それらすべてを綜合するのはイエスである。

我々の教会の働きも同じである。人を招く働きと信徒の集まりを整える働きがあるのだ。片方だけではない。教会の働きは両者の働きがあるということである。内向きの働きではダメだという人もいるが、外向きばかりでは内は整えられない。内を整えれば外はいらないのでもない。外向きの働きと内向きの働きとを分けて考えがちであるが、それらはイエスにおいて綜合されている教会の働きなのである。浅はかな人間は、どちらか一方に偏ってしまうものである。しかも、自分が考える外向き、内向きに偏ってしまう。それは自分が考える教会像であり、キリストの教会、神の教会ではあり得ない。キリストが綜合するのが教会の働きなのである。

しかし、人間の漁師というのは、その行為が外向きだと思えるかも知れないが、その行為の主体が内なる真実の信仰によらなければ、結局自分の好む人だけを集める人間の教会になってしまうのである。それゆえに、外に働きかけているように思える人も、その人の内なる信仰が神から与えられた信仰でないならば、結局その人の恣意的な教会を作り出すことになる。

この二組の兄弟たちは、この世を捨てた。網を捨てた兄弟と、父と舟を捨てた兄弟。どちらもこの世の働きのための道具を捨てた。さらにしがらみも捨てた。こうして、この世の考える同士的集団ではなく、キリストご自身が呼び集める教会として形作られたのである。キリストご自身が呼び集め、キリストご自身が綜合してくださるのが、教会なのである。エクレーシアと言われる教会は、呼び集められた一人ひとりによって形作られる。しかし、集められた人間が作るのではなく、イエス・キリストが形作る。キリストが綜合して形作る。それがエクレーシア、キリストの教会、神の教会である。

この綜合は、この後に語られる教会の働きについても同じである。福音宣教と癒しとは、外向きと考える人が多いが、福音宣教は魂に仕える働きであり、癒しは身体に仕える働きである。ここでは癒しが語られているように思えるし、新共同訳の小見出しも癒しだけを強調している。しかし、これは教会の働きの二つの面、魂と身体に仕える働きを語っているのである。魂と身体を綜合する働きが教会の働きであり、キリストの働きである。これはルターが「キリスト者の自由について」の中で語っていたとおり、魂を整えれば必然的に外的なものとして実を結ぶということである。魂の整えがないままに、身体を癒したところで、福音は内実化しない。身体を整えることは、魂の整えに従ってこそ実現する事柄なのである。従って、我々が教会としてなすべきことは、まず魂の整えである。魂が整えられていれば、必然的に身体の問題は整えられていくのである。

しかし、まず身体だけを考えてしまうと、魂の整えがないままの身体の整えになってしまう。こうして、外的業によって義とされるという間違った福音理解が横行することになるのである。内的業が外的業に結実するのである。内的人間が外的人間として現れるのである。これを逆にしてしまうと律法主義に陥ってしまう。それゆえに、我々は生涯キリスト者としての魂を整えなければならない。

キリストは、最初に外的なものである投げ網を投げることを優先したかのように思えるが、実はそれだけでは整わないことを見ておられたということである。それゆえに、外的に思える人たちを召した後、内的整えを行っていた人たちを召したのである。投げ網も繕われていなければ、投げることができないのである。この点を忘れてしまうと、内的整えを蔑ろにしてしまうことになる。両者が必要なのである。そして、内的から外的という方向性が重要なのである。我々が宣教を考えるときもこれを忘れてはならない。そうしないと、外的に、身体的に、人間が増えたということで安心してしまうのである。どれだけ人が多くとも、内的に整えられていない人間の集まりは、神の教会とはなり得ないのである。この点を忘れないように、福音宣教から癒しという働きに取り組んで行く教会でありたい。

正しい方向で働くためには、神の働きに仕えるためには、我々自身が内的な魂として整えられていなければ誤った方向に向かうのである。人間の教会となってしまったならば、福音宣教は起こり得ないのである。キリストの教会は福音宣教を第一義とすべきである。キリストの説教によって、内的に整えられた教会は、揺らぐことがない。いかに人が少ないとしても揺らぐことはない。いかに社会的に力ない群れであろうとも揺らぐことはない。ただ、キリストの働きに仕えるのである。自分の思いを沈黙させた一人ひとりを通して、キリストの働きが行われる。我々が自分の思いを、自分の理想的教会像を沈黙させるとき、キリストの求めておられる教会が現出する。こうして、我々はキリストの教会として形作られるのである。

「多くの群衆が彼に従った」と言われているが、すべての人が真実の信仰者ではない。アウグスブルク信仰告白第8条で語られているとおり、この世の教会においては、「多くの偽キリスト者や偽善者、また明らかな罪人が、信仰ある人々の中に混ざっている」のである。だれが信仰ある人々で、だれが偽キリスト者、偽善者、罪人であるかは、神がご存知であり、我々が知る必要はない。これを詮索するときも、我々は人間の教会を作り出そうとしているのだということを忘れないようにしよう。

神の教会は、神が呼び集められる。この呼び集めの中に、さまざまなレベルの人々が含まれる。最後の審判においてふるいに掛けられるとしても、だれがそうなのかは我々が知る必要のないことなのである。我々は自分自身の魂の問題に取り組んで行かなければならない。もちろん、他者の魂の問題にも取り組むのである。それは自分の魂を神に整えていただいた者として取り組むことである。自分の魂を整えれば、義とされ、神の国に入ることができるなどという打算的な働きであってはならない。一人ひとりが自分自身を謙虚に見詰め、日々悔い改めて生きて行くならば、最終的に神が選んでくださる。選びは、今与えられていても、最後の審判において確定されるものである。それゆえに、我々は自らの救いの達成に努めなければならない。使徒パウロでさえもこう言ったのだ。「むしろ、わたしはわたしの体を打ち叩く。そして、わたしは隷属させる。万が一にも、他の人に宣教して、自分自身が失格者となりはしないかと」と。ここに立つのが真実にキリスト者として形作られようとしている人間である。このような人は、キリストの十字架の痛みをわたしのための痛み、苦しみとして感謝している人である。自分のためのキリストの十字架に従おうとしている人である。このような人は、生涯悔い改めを生きるであろう。キリストの十字架を見上げつつ、キリストの苦しみに従って、苦難を恵みとして生きるであろう。我々一人ひとりが、このような生へと召されている。今日召された弟子たちと共に、我々もキリストの召しに従って進んでいこう。キリストはあなたを呼んでおられる。祈ります。

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