「溢れる悪」

2017年2月12日(顕現節第6主日)

マタイによる福音書5章21節~37節

「あなたがたの言葉は、然り、然り、否、否であれ。しかし、これらを溢れるものは、悪からある。」とイエスは言う。然りと否を越えて溢れるのは悪を起源としていると言う。悪は、越え出て溢れるものである。しかし、恵みであろうとも、溢れるのではないのか。我々人間の思いを超えて満ち溢れてくるのが恵みなのではないのか。同じように、悪も我々人間の思いを超えて満ち溢れるのであろうか。いや、悪は、神の限界を越えて溢れるのである。神が定めた限界を越えようとすることが悪の本質である。それは、アダムとエヴァの堕罪においても明らかである。悪は、神が禁ずれば禁ずるほど、破ろうとする。神が限界を定めれば定めるほど、越えようとする。悪は溢れるものである。溢れて、増加し、他の人間をも巻き込んで流れていく。エヴァが、自分が食べただけではなく、アダムにも木の実を与えたことが物語っている。他者を巻き込むのが悪の本質である。

自分だけでいられない。自分だけが悪であることを嫌い、だれかを道ずれにする。自分以外の者が善であるままに放っておけない。だれもが同じように悪であるならば、悪は平均化され、自分の悪が目立たないと、引きずり込む。このような悪の働きは、溢れる流れのように人を巻き込んでいくのである。

神は創造の始めに、海、空、地に限界を定めた。それぞれの世界を守るために、限界を定めた。海に生きる世界、空に生きる世界、地に生きる世界をそれぞれ侵害しないようにされた。しかし、我々人間はその限界を越えて、海に空に進出し、自分の世界を拡張していった。これが堕罪後の世界である。使徒パウロが語っているように、被造物たちが虚無に服している世界が、堕罪後の世界である。だからこそ、被造物たちの切望は神の子たちの啓示を切望していることなのだとパウロは語っている。神の子たちは限界を越えないからである。神の子であるということは、限界を越えないように定められた神の意志を守る存在として生きることである。それを越えてしまった悪が溢れる世界に神の子たちの啓示が生じるとき、神の子として生きる世界が開かれる。被造物はそのような世界を切望しているとパウロは語っている。神の子たちは悪を溢れさせないのである。イエスが、目を捨て、手を切り捨てることを勧めるのは、悪を溢れさせないためである。限界を越えようとするものを捨てよとイエスは言うのだ。これらを捨てることは、人間にはできなかった。イエスが言うようにはできなかったのである。それゆえに、イエスはご自身十字架を負われたのだ。

我々が越えてしまう限界を越えないことが十字架において実現している。フィリピの信徒への手紙2章8節でパウロが語っているように、「十字架の死に至るまで神に従順であった」キリストによって、溢れる悪は抑えられているのである。死に至るまで神に服従するということが神の子キリストの生き方である。この十字架のキリストの神の子性に与ることが信仰によって我々に与えられる。我々人間の悪が溢れようとするところで、十字架のキリストの信仰が溢れさせないように働くからである。我々人間の悪が溢れるところをキリストの十字架が溢れないように抑えてくださるのだ。被造物が切望している神の子の啓示は、十字架において現れているのである。そして、最後の日の完成を待ち望みつつ生きている。そうであれば、我々はすでに救われており、すでに救われているという希望を持っているがゆえに、忍耐することができるのだとパウロは語っている。この忍耐において、我々は今日キリストが勧めてくださった言葉を生きるのである。

わたしを躓かせるものを切り捨てることが待ち望む忍耐である。希望に至るまで、待ち望む忍耐は、現在において躓かせるものを切り捨てて、待つのだ。そのような生き方がキリスト者の生き方であるとイエスは勧めてくださった。我々に救いに与って欲しいからである。悪を溢れさせないために、然りと否に徹せよと語られたことも同じである。然りと否に徹することが人間として相応しい在り方である。なぜなら、神の言に対して、自分にできるとかできないとか口答えすることは、悪だからである。神が為せとおっしゃれば「はい、行います」と言い、神が為すなとおっしゃれば「はい、行いません」と言う。それだけなのだとイエスは言う。これは誓ってはならないと言う言葉に続いて語られている。我々が誓いを果たして、さも自らの成果であるかのように神に誇るからである。それゆえに、誓うなとイエスは言う。成果を求め、誇りを求め、悪を溢れさせてしまうのが人間なのである。人間は、被造物に過ぎない。神ではない。いかに勤勉に働こうとも人間である。神から誉められることを求めるような罪人である。他者から誉められ、どうぞ上席へと勧められることを求める罪人である。神に為せと言われ、「できません」と答えておきながら、上席につきたいのである。神に為すなと言われ、口では「行いません」と答え、行ってしまったあとで、他人の所為にして、自分の罪を認めないのである。これが自分自身であることを認めないのが人間なのである。このような人間のうちに悪が働き、溢れていく。

従って、我々は自然的に悪を溢れさせる存在なのであることをよくよく認識していなければならない。そのために、イエスは今日もみことばを語り給う。

離縁についても、離縁された女性と結婚する者が罪を犯すようにしてしまうことになる。これも悪を溢れさせることである。我々は自分の都合で、悪を溢れさせることになるのである。このような人間が自然的に溢れさせる悪は世界に蔓延していく。疫病のように蔓延していく。アウグスブルク信仰告白第2条で言われているように人間は原罪という疾病に罹っているからである。このような人間の病が癒されなければ、世界は虚無に服し続け、荒廃していく。そのためにも、我々は自らが病気であることを認識しなければならないのだ。それが罪の自覚である。イエスが今日語り給うみことばは、我々に罪を自覚させることばである。誰一人として、イエスがおっしゃるような人間にはなり得ない。この自覚を持つとき、我々は神に祈る者とされるのである。

限界を越え、溢れ出す悪を生み出す罪を病のようにうちに住まわせているわたしであることを知っていなければならない。この認識に立つには、信仰が必要である。あなたが罪人であり、救いようのない人間であることを自覚するとき、あなたには信仰が与えられ、働いている。そして、あなたは神との間に平和を得ている。真実に罪を自覚するとき、人は平安を与えられるのである。どうにもしようのない自分自身を自覚するとき、神の働きに対して、自分を開いているからである。罪の底の底で、あなたは救われているのである。使徒パウロも、自らの救いようのなさを知ったとき、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝」と讃美している。真実の罪の自覚は、救いそのものなのである。なぜなら、自分自身が拒否し続けてきた神の裁きを甘んじて受けるからである。神の裁きは救いなのである。

我々は裁かれないために、悪を隠してしまう。そして悪を溢れさせてしまう。人を巻き込んでしまう。そのようにならないために、今日イエスは切り捨てよと勧め給う。そこに至ることができない人間のために、十字架を負い給う。我々人間が癒されるために、何が必要であるかを勧め、それを与えるためにご自身が十字架を負い給うた。我々が心から神に祈り求める者となるために、語り、勧め、十字架を負うお方が、我らの主イエス・キリストである。キリストが来てくださらなければ、我々は救われなかったであろう。我々の悪は放置され、溢れ出すままに蔓延していたであろう。ご自身の十字架をもって、悪を溢れさせる罪を磔にしてくださったお方が我らの主である。我らをご自身のものとしてくださったお方は、十字架を日々我々に与えてくださる。みことばをもって与えてくださる。

真実に罪を自覚した者が、みことばによって日々癒されていくようにと、キリストは語り給う。終わりの日に至るまで、日々新たにされていくようにと語り給う。みことばから離れることのないようにと、語り続けてくださるキリストによってあなたのうちに神の子が形作られて行きますように。

祈ります。

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