「成し遂げる言」

2017年2月19日(顕現節第7主日)

マタイによる福音書5章38節~48節

 

「しかし、わたしはあなたがたに言う。あなたがたは愛しなさい、あなたがたの敵たちを。そして、あなたがたは祈りなさい、あなたがたを迫害する者たちのために。あなたがたが生じさせられるために、天におけるあなたがたの父の子たちと。」とイエスは言う。「なれ」と訳される言葉は、ギノマイというギリシア語で、ヘブライ語のハーヤーの訳語とされている。それゆえに、ハーヤーの意味を含みもつ言葉として使われていると理解すべきである。ハーヤーは、「生成する」、「生じる」という意味の言葉である。神ご自身の在り方がハーヤーする在り方であるというところから、この世のすべては神が生きておられるように、生成していると理解するのがヘブライ的神理解である。従って、ここで「なれ」と訳されている言葉は「神によって生成されよ」、「神によって生ぜよ」ということである。その証拠に、このギリシア語は受動態なのである。神的受動態であるがゆえに、ここでイエスが語っている命令形の「なれ」は、「神によって生成されよ」という意味なのである。従って、我々人間が自分の力で「なる」ことではない。神が、我々を「ならしめる」のである。命令形の言葉は、神が命じる言、キリストが命じる言ではあるが、あなたがなれるから命じておられるのではない。むしろ、神によってならしめていただけと命じられていると理解すべきである。我々人間はあくまで受動態を生きているのである。神がならしめなければ、我々はこの世に生まれることはなかったのだから。

このように考えるとき、「完全な者になれ」という言葉も違って響いてくる。この言葉は、ギリシア語では「究極に達した者であれ」である。ここでは、先のギノマイは使われていない。「ある」と訳されるエイミが使われている。このエイミも、先のハーヤーの訳語としても使われている。そうしてみれば、ここも「究極に達した者と、神によってあらしめていただけ」ということになる。神があるように、あなたがたは神によってあらしめていただけとイエスは言うのである。そして、あるようにあらしめていただく者とされるのは、イエスの命令の言の力によるのである。この命令の言を従順に聞くとき、我々は神の成し遂げ給う言によって、「生じさせられる」ことになり、「あらしめられる」ことになる。

我々は、天の父の子である。しかし、天の父の子として生きていない現実が罪の現実である。天の父の子であるにも関わらず、神の似姿を手放してしまったわたしたち人間は、本質的に「父の子である」究極性を生きられなくなっている。それゆえに、我々は「父の子である」ことも「父の子として生じる」こともできなくなっているのである。この事実に目覚めるとき、我々は自らが救われ難い存在であることに目覚めるのである。この目覚めを与える言葉が、イエスの言である。目覚めさせられた者は、イエスの言によって「である」こと、「生じる」ことを生きるようにされていくのである。このイエスの言こそが成し遂げる言である。

敵を愛することができない現実に目覚める。迫害する者のために祈れない現実に目覚める。究極に達してはいない現実に目覚める。そのために、いかに努力しても、わたしのうちに敵を排斥する心が宿っていることを知る。わたしを迫害する者のために祈ってなどいられないと思うわたしの心はかたくなであると知る。天の父が、あの悪人にも太陽を上らせておられる。善人が今日も太陽の恵みをいただく。しかし、同時にあの悪人もいただく。今日もあの悪人が生きている、太陽の下で。あの義人にも雨を降らせておられる。不義な者を雨で押し流してくれれば良いのに。義人でも雨に濡れる。雨が必要なときに義人に与えられるのであれば良いが、同時に不義な者にも与えられる。天の恵みも天の災いも義人にも不義な者にも、悪人にも善人にも同時に与えられる。このような天の父は不義なのではないのか。いや、神は究極に達しているお方なのだ。不義、悪、善、義、すべては神の下にあって神の愛を被っている。愛の被りの中で生かされている世界である。人間の不義にも義にも関わらず、神は義である。人間の悪にも善にも関わらず、神は善である。相手の状態に関わらず、本質的善と義を生成しておられるお方が神なのである。従って、究極に達した者とは、相手が如何なる状態にあろうとも、自らは本質的な在り方を崩さないということである。この究極性を生きておられるのが、我々の神、我々の救い主キリストなのである。それゆえに、キリストが「究極に達した者であれ」と命じるのは、我々が自らの在り方を相手に応じて変更するなということであり、それが天の父の子として改めて生じさせていただくことである。

そのような在り方の変容はいかにして与えられるのであろうか。いかにして与えられるかと、わたしの行為の結果として考えるときには、与えられない。与えられたと思っても、保持できない。すぐに失ってしまう。失って、再び手に入れようと躍起になることを繰り返すうちに、天の父の子である本来性を失ってしまうのである。これが罪の結果として、我々人間が陥った闇なのである。そこから抜け出すには、我々には何もなし得ないというところに至ってこそ、受け取ることを可能とされるのである。神が能動的に究極に達したお方であるように、我々人間は受動的に究極に達した者として生きるなら、天の父の子として生じさせていただくことになる。天の父の能動を受ける受動者、享受者として生きることが我々人間の究極的在り方なのである。そのような意味において、我々が完全な者、究極に達した者として生きるということは、受動者として変わりなく生きるということである。

敵を愛することも、能動的な行為として考えるとき、どうしてわたしが愛さなければならないのかと思える。しかし、受動的な行為として受け取るならば、神が命じ給うがゆえに、相手が敵であろうとも愛するのである。わたしの能動は、わたしの思いに従って選択されるが、わたしの受動は神の思いに従うだけだからである。そこに選択はない。選択はないがゆえに、神があらしめたものをあらしめられたものとして受け入れるのである。そのように我々を造り替えるのは神の言、キリストの言である。我々はキリストの言によって、自らはなり得ない者とならしめられる。ただ、受け入れるだけでならしめられる。わたしの魂がキリストの言と一体とされることによって、キリストの義がわたしの義となり、わたしの罪がキリストの罪となると、ルターが「キリスト者の自由について」で語っているとおりである。わたしが受け入れたキリストの言がわたしを造り替える。わたしがキリストの言と一体とされ、わたしはわたしではなく、キリストになるとルターは語っている。使徒パウロも、あなたがたのうちにキリストが形作られるために、労苦しているとガラテヤの信徒に語っている。

我々はこのような恵みの言によって、神のものとして形作られるのである。神の言を聞き続けることによって、我々は成し遂げる言によって、成し遂げられていく。生成する言、生じさせる言が、わたしを新たに造り給う言として働いてくださる。我々はただ聞き続けなければならない。我々がなり得ないと思っても、神は為し給う。我々が起こり得ないと思っても、神が起こし給う。我々が従い得ないと思っても、神が従わせ給う。神の力は、成し遂げる言。神の愛は、成し遂げる言のうちに宿っている。聞いても従えない自分を知る者は、聞き続けるのである。自分自身を造り替え給う神の言を信頼して。この信頼に生きることこそが信仰者、キリスト者として生きるということである。

神はキリストを十字架に引き渡し給うたが、起こし給うた。死を与え、生を与え給う神。このお方になし得ないことはない。キリストの十字架は、このお方の成し遂げ給う言を我々に語っている。十字架の言は救われる我々には神の力であると、パウロが語ったとおりである。キリストの言は、十字架の言、神の愛の言、我々を愛する者として造り給う言。神の言が語られているのだ。語られたとおりに生じるのだ。あなたを愛するお方の言は力ある言である。

祈ります。

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