「在り方の変容」

2017年2月26日(主の変容主日)

マタイによる福音書17章1節~9節

 

「彼は在り方を変えられた、彼らの前で」と記されている。ここで使われている言葉メタモルフォーというギリシア語は、「姿が変わる」と訳されているが、外観の変容ではなく、その人の性質、機能、生き方などを含めた在り方の変容を意味している。外観だけが変わる場合は、スケーマという言葉を使う。ここでは、モルフェーという性質、機能、生き方などを含む在り方を表す言葉に、「変わる」という意味の接頭辞メタがついている。従って、イエスの在り方が変容されたとマタイは語っているのである。

この在り方の変容は、もちろんその外観においても現れている。イエスの顔は「太陽のように、燃え輝いた」と記され、イエスの服は「光のように、真白になった」と記されている。白いと言われているが、光のようなので、色としての白ではなく、輝きのような白である。さらに、太陽のようである顔は、燃えている輝きである。このように表現するしかない外観の変容は、イエスの在り方の変容の結果である。人間の視覚では認識できない輝きが現れていた。イエスの在り方が、地上的、人間的認識を越えた在り方に変容したということである。従って、モーセとエリヤという死者たちとの語り合いが見えるのも、イエスが死を越えた在り方に変えられたからである。

ここで表現されているイエスの変容は、人間だと思っていたイエスが神的存在としての在り方に変容したことである。神的存在の在り方にこだわらず、人間の形を取ったとフィリピの信徒への手紙において歌われていたキリスト讃歌のように、イエスは地上において人間として真実に人性を生きたのである。十字架の死に至るまでの人性、人間であることを生きたのである。ところが、その人性の極みに至る前に、この山の上で神性を現し給うた。どうしてなのか。十字架の死に至るまで、人性のままで良いのではないかと思えるのに、あえて山の上で神性を現すイエス。復活後ではなく、十字架に向かう前に、神性を現すイエス。弟子たちに、自らの神性を知っておいて欲しかったのであろうか。何故に、ここで在り方を変容したのか。

この変容は、変容されたことである。受動態の動詞が使われているので、イエスが自分で変容し、在り方の変容を現したのではない。自分が神であり、死を越えた存在であることを、自分で現したのではない。神によって、現されたのである。神によって、在り方の変容を起こされたのである。ということは、神がイエスの神性を弟子たちに示したということである。どうしてなのか。神の愛する御子であることを神ご自身が弟子たちに示すためである。その御子としての在り方が、受動性にあることを示すためである。イエスは受動的に在り方を変えられている。そして、再び人間としてのイエスの在り方に戻されている。その間に神の言が弟子たちに聞こえる。「この者は、彼のうちで、わたしが喜んだわたしの子、愛する者」と。神がイエスの御子性を宣言する。その後、イエスが神であることを感じた弟子たちは恐れに支配されるが、イエスが手を触れて「恐れるな」と言う。弟子たちは「イエスのみの他、誰も見なかった」と記されている。

雲からの声は言う。「彼に聞け」と。モーセとエリヤが律法と預言者を代表するイメージとして示されたが、死を越えた在り方において、イエスは律法と預言者を越えている。それゆえに、雲からの天の父の声は言うのだ、「彼に聞け」と。イエスの語る言葉に聞くようにと。それはまた、十字架に聞けということでもあろう。これから山を下りて、イエスはエルサレムに向かうのだから。イエスの地上的生の果ては、エルサレムでの十字架刑である。イエスの地上的生の終極点である十字架がイエスの在り方の集約であり、地上的生の完成である。

山上の変容の直前に、イエスは十字架の死を予告していた。しかし、ペトロたちはあってはならないこととして否定して、イエスの叱責を受けている。弟子たちはイエスに聞くことができなかった。イエスの言を素直に聞くことができなかった。それゆえに、天の父は雲の中から弟子たちに言うのだ、「彼に聞け」と。聞く耳を持たない弟子たちにイエスの神性を見せるために、山の上に導き、イエスの在り方を変容させた。死を越えたイエスの在り方、律法と預言者を越えたイエスの在り方を弟子たちに見せたのだ。そして神は言う、「彼に聞け」と。

弟子たちも我々も、イエスの言に従うと言いながら、自分の理性的判断に従うものである。理性的判断とは、自分の人間的価値観に従った判断である。自然的理性判断はわたしにとっての利益を優先する判断である。しかも、その利益と考えるものは、見た目の、外観の利益である。自らの人生全体における善きものではなく、目の前の善きものを選択する利益判断である。それゆえに、弟子たちはイエスの十字架予告を否定した。否定的出来事は起こらない方が良いというのが自然的理性判断である。しかし、よくよく観察してみれば、自分の人生の歩みにおいて利益だと思ったことが不利益になり、不利益だと思ったことが利益になることはあったのだ。利益は、自分が積極的に獲得しようとするものである。しかし、不利益は獲得しようとはしない。むしろ、被るものである。それゆえに、不利益は受動であり、利益は能動である。人間の能動は、神の能動を受け取ることがない。むしろ、神の能動的活動を拒否するのが人間の能動である。従って、我々は不利益を被らないように、能動的に神の能動を拒否する。これが、ペトロたちがイエスの十字架予告を受け入れられなかった理由である。それゆえに、神は山上に導き、イエスの在り方を変容させ、その神性を弟子たちに見せ給うた。そして、神の子であることの真実が受動性にあることを示し給うたのである。

イエスは、山上においても、地上においても、神の子としても、神の意志に従って生きておられる。イエスが神性にこだわらず、人性を生きたのも、神が遣わしたからである。神の派遣に従って、イエスは地上の生を十字架の死に至るまで従順に生きられた。それゆえに、イエスは地上において、神の子としての在り方を弟子たちに、我々に示してくださったのだ。このイエスの在り方の変容は、神によって変えられることの可能性を語っているのである。

イエスは、自分から神性を現したのではない。神がイエスを変容させることに従っただけである。イエスが神に従順であることによって、神によって変えられることを受動しているからである。人間は、神の能動を受動することにおいて、如何なることも可能とされるのである。このすぐ後の17章20節において、イエスはおっしゃっている。信仰においては「あなたがたに不可能であることは何もない」と。すなわち、神の能動を受動する信仰を持つことで、神の意志に従うことが可能となる。神の意志に従って生きる者には、不可能はないのである。

イエスの山上の変容は、その在り方の変容であるが、もともとのイエスの在り方が現れたのでもある。神的在り方において地上を生きておられるイエスは、神の能動的力を受け取り生きておられるがゆえに、すべてが可能なのである。十字架の死を引き受けることもイエスの受動的生の究極的在り方である。このお方の在り方に聞き続けるならば、我々もまた在り方を変えられていくであろう。神の力を受け取る在り方へ。神の力である十字架の言を聞く在り方へ。十字架の言が不可能を可能とする神の力であることを受け取る在り方へ。イエスに聞くことにおいて、すべてが神の力のうちに可能となっていく。これが、我々が生きるべき信仰的生である。すべてのことを神が起こし給うように生きるならば、我々はイエスのように、神の子として生きることができる。この在り方の変容を神が起こし給うた山上の出来事を通しても、未だ弟子たちは真実を認識はできていない。それでもなお、ここで神が語り給うた「彼に聞け」という言葉を聞いているかぎり、相応しいときに、相応しい場所で、我々は信仰を起こされるであろう。あなたはすでに聞いているのだから。聞いている言葉が、あなた自身の魂に結びついて、あなたを真実に神の子として生かし給うであろう。

祈ります。

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