「天の父の側で」

2017年3月1日(聖灰水曜日)

マタイによる福音書6章1節~6節、16節~21節

 

「そうでないならば、報いをあなたがたは持たない、天におけるあなたがたの父の側で。」とイエスは言う。報いは、天におけるあなたがたの父の側にあると言う。天にある報いということであろうか。父の側とは、天におけるあなたがたの父と言われているので、天には父の側がある。従って、父の側で報いが与えられるのである。この報いとはいったい何か。父の側にある報いは、父の側にいるということである。父の側にいることができるということが報いであろう。しかし、その報いは天に行かなければ与えられないことになる。地上にあっては何もない。それが父の側での報いである。

地上にあって報いを持ちたいのが人間である。地上にあって何もないのであれば、何もしたくないと思える。報いがなければ何かしても良いこともないではないかと考えてしまう。これが人間の罪における報いの認識である。天の父の側で報いを持っているとしても、地上では何もないなら、死んだ後のために地上で何かをすることになる。それでは、誰も評価してくれないし、誰もうらやましく思うこともない。それでは、行おうという人は出てこないであろう。だから、地上における報いが必要ではないかと考えてしまう。そうである。我々は地上に生きている間に報いを得て、それを他者に自慢して、地上において満腹するのである。それが我々の考えることである。

しかし、イエスは地上における報いを語らない。天における父の側での報いを語る。ということは、地上では何もないことになる。だから、イエスに従ったところで何も良いことはないと思ってしまうのである。これでは、誰もイエスに従わないだろうし、イエスの言を真実に受け止める者は出てこないであろう。それでも、イエスはこう言うのである。誰も聞かない。誰も従いたいとは思わないことを百も承知で、こう言うのである。これがイエスの言であり、イエスの意志である。報いは地上にはない。

従って、地上にあっては何も得ることができないのがキリスト者である。死後の世界で報いがあると言われても、死んだならば生きている人に自慢もできない。生きている人がうらやましいと思うこともない。そこまでして、何の良いことがあろうかと思う。死後、天において報いがあるとイエスが言っても、それが真実にあるという保証はないのだ。それゆえに、我々は地上における報いを確認したくなり、地上において報いを確認すれば天上に持って行けるのではないかと考えるのである。地上における報いは地上だけのものである。天の父の報いではなく、人間からの報いである。

天の父は天におられる。父の御国におられる。そこにおいて与えられている報いを地上において信じていないならば、我々は地上的生のみをすべてと考えていることになるのだ。信仰とは天上における報いを信じることである。しかし、その報いは「父の側に生きる」という報いである。こう言われると、それがどうして報いなのかと考えてしまう。父の側にいるだけでは何も得ていないではないかと考えてしまう。人に自慢できないではないかと。自慢すること。人から誉められ、うらやましいと思われること。それが報いではないか。死んだ後、天の父が誉めてくれても人に自慢できない。うらやましいと思われない。それでは、何のための信仰なのかと考えてしまうのである。信仰を自分の功績のように考えるからである。

そのように考える人間は、信仰を起こされてはいない。自分が信じていると思っているだけである。自分の信心が評価されると思っているだけである。信仰は評価されることではない。評価を求めて信じるわけでもない。ただ信じるのである。評価される信仰を求めているならば、結局自分の功績である。功績を求めていないのであれば、評価を求めることはない。評価を求めない信仰であれば、我々人間の信心力ではない。なぜなら、我々が自分で信じていると思っているかぎり、我々は信仰さえも評価の対象にするからである。評価される信仰とは、信仰ではないのだ。評価を求めないだけではなく、評価されるような信仰でもない。評価される信仰という考え方は、評価されるために信じることになる。それは純粋に信じることではない。評価を信じているだけである。報いを信じているだけである。信じることを純粋に信じるということは、人間の信仰心からは生まれてこないのだ。神が与え、信じるようにしてくださる信仰でなければ、純粋性を失ってしまうのである。純粋性が失われた信仰は、汚れた信仰である。不純な信仰である。それは信仰ではない。

我々のうちに働いて信仰を起こし、信じることを純粋に信じさせてくださるのは神のみである。悪魔は、報いを求めさせ、報いを評価させ、報いを比べさせる。こうして、報いの獲得競争が始まる。それは信仰ではなく、ただの獲得競争である。これを信仰とは言わないのだ。信仰が純粋であれば、我々は地上においても天上においても報いを求めないであろう。信じることだけを純粋に信じているだけだからである。その信仰に基づいて、行われることも純粋である。報いを求めないのだから、純粋に行われている行為である。それが神の命令だから従うということであっても、命令自体が神の純粋性から発せられているのだから。それによって、天における報いを求めているとしても、地上においては報いはないのだから、地上においては純粋であろう。さらに、天上において報いがあるとしても、地上の人間には確認できないのだから、報いはないも同然である。それゆえに、ヘブライ人への手紙11章1節においてこう言われているのである。「信仰は、希望を持たれていることたちの本質、見られていない事柄たちの事実確認である。」と。

地上においては、天上における希望を見られていない事柄として事実確認しているだけである。そのとき、自分の手にしている報いはない。ただ、希望を事実確認するがゆえに、報いを希望として持っているのではある。この希望を報いとして持つということが、イエスが言う「天の父の側で」持つ報いである。これは天の父の側に行かなければ持てないのではない。信仰において、希望として天の父の側に生きている存在は、すでにその報いを事実確認して持っている。持っているように信じている。それが天における報いである。父の側での報いである。

このようなところに生きるには、自分自身の信仰を自分のものとしてはならない。神が信じさせてくださっている信仰なのだと、神を信頼することである。そのとき、我々は自分の力で信じているのではなく、神の力で信じている。神が信じさせることができるお方であると信頼していることになる。そのときには、天の父はあなたの側に生きて働いておられるのである。これが真実なる信仰である。従って、我々自身が何者でもなく、何の力もない者であることを受け入れているとき、神の力によって信じる者とされているであろう。神の力が我がうちに入り来たって、我を信じる者としてくださっているであろう。それが純粋な信仰である。そして、純粋な福音を受け取ることである。

我々は、最初の人アダムが土の塵から造られたことを知っている。土の塵は土の塵である。そこに命はない。それゆえに、神は土の塵であるアダムの鼻に命の息を吹き入れた。こうして、人間アダムは生ける魂となったと創世記には記されている。我々は、神の力によって生きているのだ。それゆえに、最初に造られた人間は神の力によって、信じたのだ。しかし、自分の力によって、力を手に入れようと考えたとき、神の力を拒否してしまった。これが堕罪の出来事である。それゆえに、最初の人間が命の息を吹き入れられたときに戻らなければならない。

この四旬節は、我々人間の原点を思い起こし、命の息を吹き入れられた土の塵であることを取り戻すときである。キリストの十字架は、土の塵に過ぎない人間を生かすのは神であることを語っている。このような信仰を与えられている者として、四旬節をキリストに従って、自分の十字架を取って、歩み続ける者でありたい。四旬節があなたの真実な命に目覚めるときでありますように。

祈ります。

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