「神の語り」

2017年3月5日(四旬節第1主日)

マタイによる福音書4章1節~11節

 

「パンのみの上に、生きることはないであろう、人間は。むしろ、神の口を通して出てくるすべての語られた言葉の上に。」とイエスは悪魔に語る。イエスの語りによって、悪魔はみことばに導かれ、みことばでイエスを動かそうとする。しかし、神の語られた言葉をイエスは語る。さらに、伏し拝むことを求める悪魔に、三度目もイエスは神の言を語る。イエスが語るのは、神の言である。自分の考え、自分の思い、自分の言葉は語らない。神の語りこそが、人間を生かすというところに立っておられる。

神は語るお方。天地創造の際にも神が語ることによって、光があるように呼び出され、月や太陽があるべきところに置かれた。語りとは、相手を求めるものである。語るということは、聞いて欲しいということである。神の語りによって、天地が創造されたということは、天地は神の語りを聞き、呼ばれたように自分自身を生きるようにされたのである。神は語りかけを通して、すべてを生かし給うのである。

語られた時点では存在していないのに、どうして語ることが可能となるのであろうか。語られて、存在するようになるということは、存在する前は語りの対象ではなかったということではない。神が語ることにおいて、語られた対象が形作られ、呼び出されたようにあることを始めるのである。神の語りは、存在していないものを存在せしめる力である。我々の目には見えなくとも、神ご自身のうちにイメージがあるがゆえに、語りが生じる。神ご自身が持っておられるイメージが語りとなって、呼びかける。呼びかけられた存在は、神ご自身のうちにすでにイメージとして創造されている。神は、ご自身の内なるイメージに語りかけることによって、我々の目に見える現実の形を与えるのである。これが神の語りによる創造である。イエスが悪魔に自分の語りで対抗しなかったように、神の語り、神の言の上にのみ立つということこそが、我々人間が生きるということである。そのとき、我々は生きるであろう、神の被造物として、神があらしめるように。

神があらしめるということは、神ご自身の在り方に従ってあるということである。神ご自身が生成するお方であるところから、生成される存在が生じる。生成される存在は、神ご自身の在り方を受けて、生成される。従って、存在は受動的に存在する。能動的に存在する存在はない。光に照らされて光るような存在の在り方が、我々の存在様式である。我々が存在するということは、我々自身からは生じない。神のうちに我々個々の存在のイメージがなければ生じない。神が我々をあるかのように呼ぶ、語りかけによって、我々はある。我々人間は、他の被造物のようにただ語られてあるだけではなく、語られた言葉を聞き、従うことによってある。神の語りを聞き、神に語る祈りにおいて、神と語り合う存在として、人間は神の似姿である。さらに、神の言のような言葉を使う存在として、神の似姿である。我々が語るということは、神の創造とは次元が違うのだが、語る対象を認めるということである。あるものとして認めることが、我々人間が語るということである。

同じように、悪魔も我々に語る。しかし、悪魔は我々が自らを認めるようにではなく、認めないように語りかける。悪魔に促された人間は、自らのあることを認めず、認められるためにあるように生きることになる。あるいは、自らが自分自身を認めることができるように生きることになる。こうして、神があるようにした自分を拒否し、自分があるようにしたい自分を生きようとする。アダムとエヴァも、蛇に促されて、神のようになることを求め、善悪の知識の木を食べてしまった。自分が認めることができる自分を求めて、生きるようになってしまった。こうして、我々人間は罪を生きることになったのである。

神があらしめている自分を拒否する人間は、自分で自分を造ろうとする。自分が能動的に自分自身を形作ることができると思い込む。自分を形作ることができるならば、世界をも形作ることができると思い込む。そのとき、イエスに語りかけた悪魔の言葉を我々は聞くのである。「もし、お前が神の子であるなら、言え、これらの石たちに、パンとして生じるように。」と。神の子は、神の語りを聞き、従うときに、神の子である。自分から神の子であることはない。自分が神の子であることを誰かに示す必要もない。ただ、神の語りを聞く存在として、神が語られた言葉に従う存在として、神の子なのである。

我々が語るということは、神が語りにおいて呼び出された存在として、相手を認めることである。相手が語りを聞かないとしても、語るわたしは相手を認めて語る。相手がわたしを認めないとしても、語り続ける。これが神の似姿である。神が、我々に語り続けたと同じように、聞かない存在にも語り続ける。我々が語るのは、自分の言葉ではなく、神の言である。イエスが悪魔に語ったように、神が語られたように語る。しかも、イエスのように、自分が従っている言葉を語る。人を従わせようと語るのではない。我々が語るべきは、人を従わせる言葉ではない。従わせる言葉は、悪魔でも語るのだ。自分が従っている言葉をイエスは語った。これが神の子であることをイエスが悪魔に示した在り方である。それゆえに、我々はイエスが語ったように、その口から出てくるすべての語られた言葉の上にわたしをあらしめ給う神を語るのである。その神が、わたしに語りかけ、わたしをあるようにしてくださっている神の言を語るのである。これが我々キリスト者の証しというものである。

悪魔がイエスに求めたように、我々が神の子であることを誰かに示す必要はない。神の子は、神ご自身がわたしをご存知であると信頼している。神の子は、神がわたしに語りかける言だけに聞き従う。人間の言葉にも、悪魔の言葉にも、権力者の言葉にも聞き従わない。神の子は、危急の際に神が救い給うと信じている。神の子は、ただ神のみを礼拝する。これが、イエスが荒野で悪魔に示した神の子の在り方である。イエスは、悪魔に示すように求められた神の子の姿を否定した。我々は、神の語りを聞くことによって、神の子であると認められているわたしを生きるのである。認めていない存在に神は語り給わないからである。神が語りを聞かせようと語り続けてくださるのは、我々が神の語りを聞かないとしても、神の子であることを認めておられるからである。神は語ることにおいて、我々を神の子として認め、語りかけ給う。我々は、神のうちにあるイメージとして呼ばれている存在である。神が呼び、現し、語りかけ、創造し給う存在である。我々は、神の語りによって今を生きている。我々が生きているということは、神がわたしに語り続けてくださっているということである。わたしがわたしとして保たれているのは、神がわたしに語りかけておられるからである。わたしが神の語りに耳を傾けないとしても、神が語りかけるわたしはわたしとしてある。わたしが神の語りに耳を傾け、聞くようにされたとき、わたしは神が語りかけるわたしを生きる。神の子であるわたしを生きる。

アダムとエヴァは、神の語りを聞けなくなった罪に堕ちた。蛇の誘いに惑わされて、罪に堕ちた。今日、イエスは惑わす悪魔に耳を貸さず、神の語りである聖書の言葉にのみ耳を傾けた。このイエスにおいて、アダムとエヴァの罪が働かないようにされている。無効化されている。十字架は、我々の罪の無効化である。働かなくされた罪が十字架に磔にされている。キリストはそのために来られた。その公生涯の最初に、神の語りのみに従って、悪魔に支配されなかった。公生涯の最後に、十字架において、原罪を働かなくしてくださった。神の語りが、いかに力強く人間を生かすのかを示してくださった。

四旬節の歩みは、このお方の働きに身を委ねる歩みである。我々の思い、我々の考え、我々の言葉を沈黙させて、神の言にのみ耳を傾けて歩もう。神の言に聞き続け給うキリストが、あなたのうちに形作られるようにと歩もう。キリストは、ご自身の体と血を持って、我々のうちに住み給う。我々が神の言のみに耳を傾けることができるようにと、来たり給うキリストを感謝して、受けよう。

祈ります。

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