「受動的能動」

2017年3月12日(四旬節第2主日)

マタイによる福音書20章17節~28節

 

「人の子が、仕えられるために来たのではなく、むしろ仕えるために、そして、多くの人たちに対する買い戻し金として彼の魂を与えるために来たのと同じように。」とイエスは言う。ゼベダイの息子たちの母が二人の息子をイエスの右からと左から座らせて欲しいと願ったことに対する応えが、最終的にこのように語られる。この言葉には、イエスが仕えるという能動、イエスが自分の魂を与えるという能動が語られている。しかし、二人の弟子たちの母に語られているのは、「わたしの右からと左から座ることは、わたしが与えることではなく、わたしの父によって備えられてしまっている者たちに」与えられるということである。イエスご自身も、自分の魂を与えるということを、父が備えてしまっている者として与えるのである。つまり、すべては父が備えてしまっていることであると、イエスは語っている。そのすべてを、自分の願い、自分の思いに従って、獲得しようとすることはできないということである。父に備えられて、備えられたことを受け取って、我々は生きるということである。これは受動的能動である。受動的に能動を生きるのである。我々がまず能動である場合は、ゼベダイの息子たちのように他者の上に立つことを求めてしまう。受動であるかぎり、上に立つことではなく、自分が獲得することでもなく、与えられたように生きる。これがイエスが言う「仕えるために来た」ことであり、「与えるために来た」ことである。従って、イエスが与えたものを受け取った者は、与えるため、仕えるために生きることになる。イエスと同じ生き方、在り方に変えられるからである。ということは、ゼベダイの子らは、未だ変えられていないということである。しかし、変えられるときが来る。それは「父が備えてしまっている者たちに」来たる父の時である。

我々人間は、生まれたときから受動的に生まれる。受動的に生まれて、生まれさせられたことを能動的に生きる。我々が真の意味で能動的であるのは、生まれさせてくださったお方の心を受け取っているときである。そうではないとき、我々は自己中心的で、わがままで生きて行くことになる。このとき、他者を批判して貶め、他者の上に立ち、他者をこき使うことに陥る。これが罪の働きである。

イエスは、人間の罪によって起こされた十字架を神の意志として受け取り、引き受けている。イエスが人間から負わされた苦難は、被ったものである。被ったものを引き受け、自分のものとして担うとき、受動的能動をイエスは生きている。イエスは、神の意志に従うことを能動的に生きているが、従うという受動において能動を生きているのである。こうして、苦難が受難になる。苦難は単に被ったものであるが、受難は被ったものを受け取り生きることだからである。それゆえに、イエスの十字架という苦難が、イエスの受難において神の救いの出来事となっていくのである。イエスは受動的能動を生きて、救いを実現し給うた。イエスに救われた者は、イエスと同じように受動的能動を生きる。これが今日イエスが「わたしの父が備えてしまっている者たちに」可能となることとして語っておられることである。

このようなところに生きることは「備えられてしまっている者たちに」のみ可能である。そうはでない者たちは、どのようにしたらそうなれるのかと考えるからである。ゼベダイの二人の息子たちがそうである。彼らは、イエスの右からと左から座ることを願うが、ただ願っているだけであると思える。ところが、イエスは言う。「あなたがたは分かっていない、あなたがたが何を願っているかを」と。彼らは願うべきことを願っていない。願うべきことは自らの救いであり、自らの地位ではない。それゆえにイエスはさらに言う。「あなたがたは可能なのか、わたしが飲まんとしている杯を飲むことが」と。これに対して、二人の息子は「可能です」と応えている。自らの罪深さと弱さをまったく分からず、可能だと言う。これが罪人の愚かさである。

我々は、自分で可能であると考えるとき、我々が判断できる範囲の可能しか考えていない。わたしの弱さを超えて、可能とし給うお方を仰いでいない。そのとき、我々は能動においては自分自身に限界づけられている。ところが、神の言を受動的能動において生きるときには、神の言の可能とする力によって、自分自身に限界づけられたものを超えさせていただくことができるのである。

ゼベダイの子らの言う「可能です」との応えは、上記のような意味で語られているかのようである。ところが、彼らの「可能です」との言葉には、神の許ではすべてが可能であるという意味はない。今日の箇所の少し前のマタイによる福音書19章26節で、イエスはこうおっしゃっている。「人間たちの許では、これらのことは不可能なこと。しかし、神の許では、すべてのことが可能なこと」と。ゼベダイの息子たちが「可能です」と応える言葉は、「人間たちの許での不可能なこと」を超えることができない。なぜなら、彼らが自分自身の罪に限界づけられているからである。

金持ちが天の国に入ることが不可能であるがゆえに、自分たちの力では入り得ないと彼らは考えたのであろう。それゆえに、母に頼んで、イエスに願ってもらった。ところが、彼らがまず自らの救いを求めなかったことは、彼らが罪に支配されている認識がないということである。神に従わない罪に支配されていながら、そこから解放される救いを求めないということは、罪に浸ったままに自分の願いを実現するだけに留まる。罪認識がなければ、神の救いを受け取ることはできないし、罪から解放されることはない。自らの能動だけを求めるからである。神の意志の受動的能動に至ることなく、罪の意志の能動的能動へと導かれ、罪に支配されてしまう。受動的能動がイエスの生き方であり、イエスに従う者が生きるべき生であることを受け取ることができない。そのとき、我々はどこまでも自分の成果を求め、自分の地位を求め、自分の評価を求める。こうして、罪の泥沼にはまり込んでしまう。そこから抜け出すには、泥沼にはまり込んでいる自己認識が必要なのである。その認識がなければ罪から救われることを求めず、地位だけを求め、力だけを手に入れて、他者に権力を奮うことに陥る。これがゼベダイの子らが求めたものであり、他の弟子たちが腹を立てたことである。腹を立てた他の弟子たちも同じ穴の狢である。自分たちも抜け駆けしたかったがゆえに、腹を立てたからである。

このような弟子たちがイエスの弟子たちであった。このような弟子たちのために自分の魂を与えるイエスなのである。端から見れば、どうしてこんなどうしようもない人間のために尊いイエスの魂が献げられなければならないのかと思ってしまう。ところが、こう思う我々自身も同じ穴の狢なのであることに気づいていない。イエスがだけが気づいておられる。それでもなお、イエスはご自身の魂を、命を買い戻し金として与えるとおっしゃるのだ。それは、イエスご自身が受動的能動を生きておられるからである。このような者に自分の魂を与えて何の利益があろうかと思うのが自然的人間である。しかし、神が与え給うた意志を受けて、ただ従うイエスであってみれば、その行為の結果が如何なることになるかは問題ではない。神の意志に従うことだけがイエスの喜びだからである。受動的能動だけがこのような生き方を可能にする。能動的能動の立場からは、これほど愚かな行為はないであろう。悔い改めもしない人間のために、自分の命を、魂を与えるなどということは、愚かなことである。効率的ではない。しかし、そこにこそ、我々人間が真実を生きるべき道がある。イエスは人間としての真実を生きてくださった。十字架の死に至るまで生きてくださった。愚かな罪人が神の意志を受動的に受け取り、能動的に従うようにと、十字架を生きてくださった。このお方に従うように、父によって備えられてしまっている者たちに救いが与えられる。パウロが言うように、十字架の言は救われるわたしたちには神の力である。この力を無償で与えてくださるお方を仰いで、御力で包んでいただくために、四旬節を歩み行こう。

祈ります。

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