「願われて願う」

2017年3月19日(四旬節第3主日)

ヨハネによる福音書4章5節~26節

 

「わたしに与えよ、飲むことを」とイエスは、サマリアの女に願う。イエスは願うが、それは女に願わせるためである。イエスの願いは、女が願うようになることである。そのために、まず自らが女に願う。これが今日の出来事である。

自らが願うということは、願うことを与えることである。イエスは女に願うということを与えた。願われた女がイエスに与えるわけではない。むしろ、イエスに願うようになる。イエスとの会話の果てに、女はイエスによって潤されることを願うようになった。イエスの願いが女の願いになった。イエスが女に求めて欲しいことを自らが願ったがゆえに、女においてイエスの願いが実現している。これが今日、イエスが我々に語ることである。女は願われて願う。イエスに願うことを願われて、願うようにされたのである。それがイエスがこうおっしゃる意味である。「神の賜物をあなたが知っていたなら、そして、わたしに飲むことを与えよと言った者が、誰であるかをあなたが知っていたなら、あなたが彼を願ったであろうし、また彼があなたに生ける水を与えたであろうに。」と。つまり、女が願うようにされたのは、イエスが誰であるかを知ったからであり、神の賜物を知ったからである。そこへと導くために、イエスは女に願った「わたしに飲むことを与えよ」と。

もちろん、イエスの願いの言葉は命令形である。願うとは言え、命じるイエス。そこにはイエスの権威がある。権威ある言葉は、聞いた者を権威の下に服せしめる力がある。それゆえに、イエスの願いは権威ある願いであり、女に願わせる命令である。この命令の下に、女は願う、イエスに。イエスの与えた願いは、女のうちで湧き出る泉となる。神への願い、イエスへの願いが湧き出る。ということは、我々が願うと言っても、自分が何を願っているのかを知らないということである。イエスによって、知らされ、導かれて、願うべきものを願うようにされるのである。

女は、イエスの願いを聞いても、どうしてサマリアの女であるわたしがユダヤ人に飲むことを与えなければならないのかと問う。サマリア人を馬鹿にしているユダヤ人に与えるなどということは起こり得ないであろうと。そのようなサマリアの女に願うなどということも起こり得ないはずではないかと。それにも関わらず、イエスは女に願ったのである。その願いは、人種的差別を越えた願いであり、女に男が願うという通常の価値観とは逆転した態度の中にある真実の人間性である。願うことは、相手が誰であろうとも願うべきものである。ユダヤ人であろうとサマリア人であろうと、必要なものは与え合うべきである。人間としての他者を尊重する愛においては、差別も区別もないからである。マタイによる福音書5章45節にも言われているとおり、天の父は「悪人と善人の上に彼の太陽を昇らせ、義人と不義な者の上に雨を降らせる」お方である。それゆえに、天の父の下に生かされている者はすべて互いに与え合うべきなのである。それこそが真実の人間として生きる道である。

真実の人間とは、神の前にひれ伏す者である。それは、神の被造物、天の父の子として、神の前にすべてを投げ出す者である。わたしが自分自身で生きているのではなく、神の与え給うたいのちによって生きていることを知っている者である。神の与え給うたいのちは、原罪によって塞がれて、溢れ出すことができなくなっている。それゆえに、イエスは願うことを通して、神に願うものを解放するのである。それは呼び水のようなもの。呼び水の願いによって、女は真実の人間として、人を恐れることなく神を畏れる者とされた。これが今日、イエスが女に行った救いである。

サマリアの女がこのような恵みをいただいたのは、どうしてなのか。彼女が、町の井戸に行くことができず、町の人間たちから身を隠して生きなければならない存在だったからである。それゆえに、彼女は町の外の井戸に水を汲みに来たのだ。イエスは、この女を解放するために、自らに飲むことを与えよと女に願った。願うことを与えて、願うようにされた。女は乾くことのない水を求めた。それによって、女は湧き出すいのちを自由に生きることができるようになった。それゆえに、続く箇所で、町に戻って自分のことを告げ、イエスのもとに人々を連れてくるのである。サマリアの女は、自分を閉じていたものを開かれた。サマリアの女であること、結婚していない男と同棲していること、町の人々からは蔑まれていること、女の人生すべてが女自身を塞いでいた。ところが、イエスに出会って、願われたがゆえに塞がれていたものが取り除かれ、ありのままの自分を生きる者とされた。イエスは願うことを通して、女に願うことを教え、与え給う神を知らせた。真実の人間としての被造性を生きるならば、何も恐れる必要はないことを教えた。その究極の形が礼拝である。

女がイエスから聞いた礼拝の教え。それは「霊と真理の内で父にひれ伏す」ということであった。ここで使われているプロスクネオーというギリシア語は「礼拝する」と訳されているが、「ひれ伏す」が原意である。従って、ここで「霊と真理のうちでひれ伏す」と言われているのは、礼拝の在り方のことである。礼拝という言葉は、ギリシア語ではレイトゥルギアなので、ここで使われているプロスクネオーは、礼拝の際のひれ伏す心を表している。礼拝とは、神の前にすべてを投げ出して、ありのままの罪人として神の前にひれ伏し、悔い改めることなのである。この在り方がなければ、どれだけひれ伏すとしても、どれだけ祈るとしても、礼拝にはならない。礼拝とは「霊と真理のうちでひれ伏す」ことである。

「霊」とは人間の霊ではなく神の霊である。「真理」とは霊を通してでなければ受け入れることができないものである。なぜなら、「真理」は隠れなきことだからである。ありのままの罪を隠して生きている者は真理の内で生きていない。真理のうちで生きる者は、ありのままの罪人であることを隠さない。自らの悪も隠さない。隠さないで神の前にひれ伏す。自らの罪の在り方を変えることができない自分自身を認めて、神の前にひれ伏し、願うのである、霊のうちで。わたしを造り替えてくださいと。これが真実の願い、イエスが女に求めた願い。これが「永遠のいのちへと湧き出る水の泉」なのだ。願うべきことを願うべきお方に願う。願うべきお方に願った願いは、イエスが女に願って欲しいと与えた願い。それが呼び水となって、女が真実のいのちの願いをイエスに願った。その願いによって、女は解放された。塞がれていたいのちが、湧き出るいのちへと変えられた。ここに女の救いがある。

我々が自分を塞いでいるものは、我々自身では認識できない。イエスがそれを指し示してくださって、漸く認識する。認識したとき、我々は求めるべきお方を認識する。こうして、我々は真実に生きることを可能とされるのである、イエスによって。イエスの言によって、ありのままに生きることが可能となる。今日、イエスは、女を永遠のいのちへと湧き出るようにしてくださった。塞がれていた女のいのちは、永遠のいのちへと湧き出た。願われて願う者にされた。ひれ伏すべきお方を教えていただいた。女の解放は、イエスの願いによって生じたのである。

イエスの願いはイエスの十字架である。十字架はすべてのものをはぎ取られ、裸のイエスをさらしている。ありのままのイエスにおいて、すべてを願う在り方が示されている。裸にされて、自らを縛られたイエス。このお方は、自らを生かしてくださるお方に願った。救い給うお方に願った。我々人間の願うべき願いを願った十字架のイエス。我々が認識もしないでいた、我々自身のうちに塞がれていた願いを十字架の上で願ってくださったイエス。我々が父なる神の前にひれ伏すことができるように、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。聖餐を通して、イエスの真実のいのちが、わたしのうちに生き始める。わたしがすべてを神に期待し、神の力によって真実の人間として生きることができるようにしてくださる。あなたの神は願って欲しいのだ。ありのままの罪人として、神の前にひれ伏し生きて行こう。

祈ります。

Comments are closed.