「裂け目」

2017年3月26日(四旬節第4主日)

ヨハネによる福音書9章13節~25節

 

「彼らの内に裂け目があった」と記されている。「意見が分かれた」と訳されている言葉は、「彼らの内に裂け目があった」、あるいは「裂け目が存在した」である。この裂け目は、イエスの存在、イエスの行為によって生じた。いや、あったものがあるように見えてきた。そのとき、突然意見が分かれたわけではない。もともとあった裂け目が見えてきただけである。それゆえに、イエスが裂け目を作り出したわけではない。しかし、裂け目を見えるようにしたとは言えるであろう。イエスが、生まれつき目の見えない人の目を開いたがゆえに、裂け目が見えるようになった。ということは、イエスが開いたのは目だけではなく、隠されていたものすべてである。イエスの存在、イエスの行為、イエスご自身が闇を照らす光、世の光である。生まれつき目の見えない人の目を開くことと裂け目をあるように見せることにおいて、イエスは光として生きておられる。イエスは、この出来事と周囲の反応を照らし続けているのである。それはまた、一人ひとりの真実な思い、真実な姿が明らかになることでもある。

目の見えない人の両親は、自分たちが会堂から追い出されないようにと、何も答えない。本人に聞けと言う。さらに、尋問するユダヤ人たちは、目の見えない人がいかに答えようとも、自分たちの考えに合わなければ受け入れない。期待する答えが得られるまで何度も問う。これらの姿すべてをイエスは照らし出した。イエスが目の見えない人の目につばで作った泥を塗りつけたことがすべての始まりだった。それだけのことが、すべての人々の心の思い、隠しているものすべてを照らし出した。イエスは、このようにして我々人間を照らす光である。それはすでにあったものをあるように照らす光である。裂け目はあったようにある。それ以上ではないし、それ以下でもない。あるようにあるだけである。

イエスの十字架はこのように照らし出す。我々人間の罪をあからさまに照らし出し、我々が隠していたものが見えるようになる。見えるようにされた罪を認め、受け入れることで、我々は罪に支配されることなく、罪から解放される。裂け目が見えたとき、裂け目があると認めることで、裂け目を越えることができる。認めなければ、裂け目にはまり込んでしまう。目の見えにない人を何度も問い詰めるユダヤ人たちは裂け目を認めないのだ。裂け目から見えているありのままを認めないのだ。それゆえに、目の見えない人は言う。「わたしは一つ知っている。盲人であって、今、わたしは見ている」と。

真理はたった一つである。しかも、盲人であるということと、見ているということが同時にあるのである。矛盾したものが同時にあるのが、真理なのだろうか。盲人は盲人。見ている人は見ている。それは別々のことではないのか。しかし、盲人は見ている。見ていると思っているユダヤ人たちは見ていない。見ようとしないからである。そうであれば、盲人であることを認めているとき、見ていることが生じていると言える。裂け目を認めるとき、裂け目を越えることができるのと同じように、盲人であることを認めているとき、見ているのである。それは、盲人自身の力で見ているのではなく、イエスの力、神の力によって見ているということである。しかし、裂け目を認めないのは、認めようとしない人間の思いで隠しているからである。このとき、ありのままを見ることはできない。

目の見えない人が、見ているということは、見ていること自体が矛盾であるが、矛盾を越えるのは神の力である。さらに、神の力によって信じる者とされたならば、矛盾を越えて、ありのままの世界を認めるのである。そのとき、我々は不信仰によって目を閉じていることを認めるであろう。認めたとき、信仰のうちに入れられている。目の見えない人は、見えないことを認めて、見ている自分を認めた。そこに信仰が与えられている。生まれつき目が見えないのであれば、見ているとしても見ているのかどうかを判別することはできないであろう。見ているといことがどういうことであるかを知らないからである。しかし、この人は見ていると言う。見ているということが如何なることであるかを判別したのは、どのようにしてなのか。イエスが語ったとおりに従ったからである。つまり、イエスの言に従うとき、信仰によって見える世界に入れられたのである。

自然的に見ている人と、信仰によって見ている人の違いが生じている。この違いが裂け目として現れるのである。裂け目を認めるとき、我々は信仰によって見ていない自分を認めるのである。意見の違いだけではなく、在り方の違いが見えるということが裂け目なのである。裂け目が見えたとき、信仰に入れられている。裂け目はありのままに見れば見えるからである。しかし、我々人間は自然的にはありのままに見ることができないのだ。自然的思考によって、我々は神の世界を我々の認識に従って、判別しようとしてしまうからである。これが原罪という疾病に冒された人間の状態である。この疾病から癒されるためには、我々が病を認めるように、自分自身のありのままを認めることが必要なのである。

しかし、認めることさえもできないのが自然的人間である。自然的人間は、いかに調べたとしても、信仰的現実を認めることはできない。信仰的現実は信仰によってしか見ることができないからである。目の見えない人が見ているという信仰的現実は信仰によって認めることである。両親も認められなかった。ただ一人、目の見えない人だけが認めた。これはどういうことであろうか。

我々人間は、ありのままを認めるのではなく、誰かの目に気に入るように認めるものである。両親もユダヤ人たちの気に入るように沈黙する。ユダヤ人たちは、自分たちの気に入ることだけを認める。従って、ありのままではなく、自分たちが基準、人間が基準なのである。これでは、神の世界を認めることも、見ることもできない。ただ、目の見えない人だけが認めた。目が見えないということを認めたからである。見えないことを認めることで、見えるようになった、神の世界が。イエスが示した裂け目をただ受け入れた者だけが裂け目から見る、ありのままの神の現実を。これが今日、語られている出来事である。

この出来事を通して、すべてが明らかになった。見ていると思っている者が見ていない事実が。見ていないことを認めた者が見ている事実が。どちらも一つなのである。「今、わたしは見ている」という一つの事実を誰も認めることができなかった。目の見えない人だけが認めた。神の出来事を認めるのは、ただ一人だけ。我々が一人になってしまうとき、認めるであろう。何ものにも捕らわれることなく、ありのままの事実を認めるであろう。一人にならなければ、人間は共にいる者の気に入ることだけを見ようとするからである。誰にも認められないことによって、誰にも頼ることができないことによって、人間はありのままの世界を見るのである。

この世界を見せるために、イエスは来られた。この世が闇に閉じ込めてしまっている神の世界を見せるために来られた。自らも他者も閉じ込めてしまっている闇に、イエスは入り来たり給うた。世の光として来たり給うた。イエスによって、イエスの言によって、イエスの十字架によって、この世は照らされている。照らされて、ありのままをさらしている。さらされたわたしを認め、受け入れる者は、ありのままに生きる力をいただく。神の力をいただく。その人は、他者を気にすることなく、真実を生きる。自分のためではなく、神の意志に従って生きる。そのためにこそ、イエスは十字架を負われたのだ。

イエスは、我々が真実のいのちに目覚め、真実に生きるために、十字架を負われた。ただ一人の人間とされてこそ、イエスの十字架を仰ぐことができる。イエスも十字架の上でただ一人の人間として死んだのだから。十字架の前にただ一人立ち、ありのままのわたしが見えている裂け目を仰ぎながら、四旬節を歩もう。あの十字架の裂け目から差し込む光が、あなたを照らし出す。見えていない事実を認めるようにと照らし出す。神の世界を明らかにするイエスの十字架を見上げて、歩もう。

祈ります。

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