「声をかける」

2017年4月2日(四旬節第5主日)

ヨハネによる福音書11章17節~53節

 

「ラザロよ、ここへ来なさい、外へ」とイエスは死んでいると思われていたラザロに声をかける。声をかけるということは、その人に向かって声を発すること。声は、発する者の内的なものが現れてくることである。声を発するには、意志が必要である。内的に何かを考えていても、外的に声として発しないかぎり、誰にも何も伝わらない。声を通して、我々は他者に向かって、自分自身のもの、自分の内的なものを与えるのである。

声を聞いた者が、その声の主の意志を受け取ったとき、動き出す。マルタが妹のマリアに言う。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と。「お呼びです」と訳された言葉は、フォーノーというギリシア語で、声を発することである。「叫ぶ」とも訳される。声はギリシア語でフォネーであるから、フォネーを発することがフォーノーである。声を発することで、誰かを呼ぶのだから、マルタの言葉は「お呼びです」と訳されている。イエスは、マリアに向かって声を発していたのである。マルタに向かって、声を発し、「マリアを呼んできなさい」とイエスがおっしゃったのであろう。「マリアはどこか」とおっしゃったのかも知れない。いずれにしても、マリアに声を発しているとマルタは受け取り、マリアに伝えた。イエスは、マリアに声をかけることを望まれたのである。マリアに自らの内なるものを与えることを望まれたのである。もちろん、マルタにもそのように接しておられる。

マルタは、自らがイエスに声をかけられた者として、マリアに声をかけ、イエスがあなたに声をかけておられると告げた。声から声が生まれ、声を交わし合う。その根源はイエス。イエスの意志が声となって、マルタ、マリアへと伝わって行く。最後に彼女たちの兄弟ラザロが声をかけられ、出てくる。イエスは声をかけることによって、すべてを導いておられる。その声を聞かない者は、イエスの意志を受け取らない。イエスの意志がその人のいのちを呼び出すことはない。しかし、イエスの声だけは確かにある。確かにある声だけが、我々を生かし、導く。神は声だけですべてを造り給うた。この世界を造り給うた。それゆえに、イエスも父の声に促されて、ご自身の声を発する。いのちを呼び出す声を発する。ラザロは、イエスにかけられた声に応えて、出てくる。

死の声だけが聞こえる墓に、閉じ込められたラザロ。彼は、人間によって閉じ込められた。ラザロは死んでしまったと、閉じ込められた。しかし、イエスは、ラザロは眠っていると言い、眠りから醒ますために行くと言う。それを聞いた弟子たちは、眠っているのであれば、救われるでしょうと言う。それに対して、イエスは言う、「ラザロは死んだ」と。ラザロは死んでいないと言うのではない。死んだと言う。死が眠りであると言う。永遠の眠りではなく、目覚めさせることができる眠りであると言う。目覚めさせることができるのは、死を眠りとしているときだけである。イエスへと信じる者は、死を眠りとして目覚めさせられる者となる。イエスのうちにあるならば、死は目覚めさせられるものに変えられている。イエスのうちにあって死んだ者は、死んでもイエスの声を聞く。イエスはそのようなラザロに声をかけ、死の眠りから目覚めさせた。ラザロがイエスの声に耳を開かれていたからである。

イエスの声によって信仰を起こされ、信仰のうちに入れられた者は、イエスの声を聞く者とされている。イエスの声によって生きる者は、イエスのかける声に応えて生きる。「ラザロよ、ここへ来なさい、外へ」と声をかけるイエスが、ラザロを眠りから目覚めさせる。死の眠りから呼び出される。声をかけるイエスによって呼び出される。マルタ然り、マリア然り、ラザロ然り。然りであるようにある。呼び出される存在は、あるがゆえに呼ばれる。ラザロの死を、「眠りについている」とイエスが語ったがゆえに、ラザロはイエスによって、呼び出される者として認識されている。イエスがラザロをどのように見ているかが重要なのである。イエスは、自然的人間の認識が死んでいると認める存在を、声をかけるべき存在として認識している。イエスの認識によって、ラザロは呼び覚まされる存在となっている。それがイエスが起こし給う信仰なのである。

ラザロのうちに信仰が起こされ、ラザロは信仰のうちに自然的死を死んだ。そのラザロをイエスは声をかけるべき存在として、呼び出すのである。「ラザロよ、ここへ来なさい、外へ」と。ここには、死を越える信仰が語られているが、自然的人間には越えられない。イエスが越えさせるのである。イエスが声をかけることによって越えさせる。ラザロは、イエスに声をかけられなければ、墓から出てくることはできなかった。イエスが呼ぶがゆえに、出てきた。ラザロは自分から出てくることはできない。自分から死を越えることはできない。イエスが声をかけるがゆえに、死を越える。死を越えることは、イエスのかける声に従うことなのである。この従順こそが信仰である。信仰とは従順のことである。

神が呼び、呼ばれたようにあることを受け入れるとき、我々は神によってある存在を生きている。しかし、自分が思うようにあることを生きているとき、神のかけ給う声を聞いてはいない。それゆえに、自分の意志だけに従い、自分のありたいようにあり、自分の意志が失われる死を越えることはできない。死は我が意志の喪失である。我意の喪失が死であるがゆえに、使徒パウロは言うのだ。「死んだ者は、罪から義化されている」と。我が意志を喪失するとき、我々は自らあるようにあることはできなくなる。こうして、我々の死は、我々を自分自身から解放すると言える。しかし、解放される前に解放してくださるお方に自らを委ねていない者は、解放されて、何も残らず、何によっても生きることはできなくなる。こうして、失われるままに失うのである。

ところが、解放される死の前に、すでに自らがイエスの声に従順であった者は、何もなくなったとしても、イエスの声があるかぎり、生きる。解放される前に、イエスの声を聞いていた者が、死んでもイエスの声を聞く。イエスの声だけが、わたしのいのちであると生きているからである。「わたしを信じる者は、もし死んでも生きるであろう」とイエスがおっしゃるのは、そのような事態である。そうでなければ、人間は死によって、すべてを喪失するのである。生きていて、すべてを喪失して、イエスのかける声に従って生きている者は、もし死んですべてを喪失しても生きる、イエスのかける声によって。これが今日、イエスが我々に語り給うことばである。

イエスご自身のことばが、我々に語りかけられる声を聞く者は、信じる者である。信仰を起こされ、信仰のうちに入れられ、信仰の従順を生きる者である。その者は、真実に自分自身を生きるであろう。神によって声をかけられている存在として生きるであろう。そのとき、我々は死という自然的終末を越えて、神の呼び給う声に従って目覚めさせられる。

この声は、場所を選ばない。どこにおいても聞こえる。マルタやマリアが言うような「もし、ここにあなたがいたならば」ということは必要ない。声はどこでも聞こえる。如何なる場所、如何なる境遇、如何なる状況においても、聞く意志を開かれていれば聞こえる。イエスが与え給うた信仰が、イエスの声を聞く。あなたのうちで聞く。それゆえに、イエスのいる場所を求める必要はない。イエスがあなたのところに来てくださる。声をかけるために来てくださる。ラザロのところに来てくださったように。マルタ、マリアのところに来てくださったように。あなたのところに来給うお方が、ご自身のものを与えてくださる。声を通して、与えてくださる。

イエスの体と血を通して、イエスご自身の声を聞くあなたのうちに、イエスの義が与えられる。罪深き存在が、義化される。信仰ある者とされる。あなたを愛し、あなたのためにご自身のものを与えてくださったお方が、あなたを今日も呼び給う。「ここに来なさい」と、声かけ給うお方に応えて、み前に出て行こう。イエスのいのちがあなたのいのちとなる。神の意志に従って生きる者としてくださるイエスの御業に感謝して生きて行こう。

祈ります。

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