「満たされる語り」

2017年4月9日(枝の主日礼拝)

マタイによる福音書21章1節~11節

 

「預言者を通して語られたことが満たされるために」、イエスはロバに乗って入城する。エルサレムに入城する。「見よ、あなたの王があなたに来る」と預言者ザカリヤを通して、神が語ったことが満たされる。イエスは「あなたの王」としてあなたに来る。あなたにやって来る。あなたが「わたしの王」として迎えるならば、やって来る。イエスはあなたの王。あなたを支配し、支配に服させ、従順に生かすために来給う。あなたが神に従わず、罪に流されていたとしても、イエスは来たる。罪深いエルサレムに来たる。罪深いあなたに来たる。あなたの王は、あなたを支配するために来るのだ。あなたが従順に神に従う者として生きるために来るのだ。

この従順は、まずイエスにおいて生きられた。イエスが、神が語られたことに従順であることで、神が語られたことが満たされる。満たされるということは、虚しくならないということである。虚しいのは、外側だけで、内側が何もないこと。満たされているという状態は、外側に現れるが、内側が満たされているがゆえに現れる。内側が満たされていなければ、外側に現れることはない。現れた外側を、神が語られたことが満たされた結果であると受け取るのは、信仰における受け取りである。この信仰を起こすことがイエスの入城の目的である。信仰とは従順のことだからである。

それゆえに、イエスはまずご自身が神の言に従順であられた。神が語られた言葉に従って、ロバに乗り、エルサレムに入城する。入城することにおいて、イエスは神の言に従う。神の言に従う者が、神の言として、神に従う存在を造り出す。イエスの従順の姿を神の言として、自らのうちに受け取る者が、イエスの従順に倣い、神に従う生を生きるようになる。これが今日、イエスが行い給うた語りの満たしである。

イエスのロバに乗る入城という形は、預言者ザカリヤの言葉のままである。端から見れば、形を真似ているだけに過ぎないと思える。形を真似ることが神に従うことかと思う。形を真似て、外面だけ繕っているのならば、それは形式なのではないかと思える。単なるデモンストレーションではないかと思える。あるいは、聖書の言の通りに行わなければならないという原理主義に陥る人もいるであろう。原理主義は、信仰の形骸化を生む律法主義と何ら変わることがない。イエスの行為は、原理主義ではない。律法主義でもない。デモンストレーションでもない。イエスご自身の語りなのである。

イエスは、行為を通して救いを語り給う。行為を通して、神に従う道を語り給う。行為を通して、神がどのようなお方であるかを語り給う。イエスの行為はすべて語りである。神が語られた意志をご自身の内実となし、内実から現れる行為として表しておられる。預言者の言葉も実は内実を表す行為である。預言者たちは、自らのうちに聞こえてきた神の言のうちに発し給うた神の意志を受け取った。それは一つのイメージとして、救いのイメージとして、裁きのイメージとして預言者たちの中に定着した。定着したイメージを自分の言葉で語った。自らのうちに満たされた神の語りを自分の言葉で語った。自らのうちに満たされていなければ、語ることはできない。語りは、語る神の意志が内実化してこそ、語りとなる。神が語られたとおりに語るということは、神が人間の言葉で語られたとおりではなく、神の語りが自らのうちに内実化して、満たされたとおりに語ることである。従って、語る前に、全面的に受け入れていなければならない。全面的に受け入れるということがイメージを受け取ることなのである。イエスは、この神のイメージをご自身のうちに受け取り、イメージに従って行為された。その行為は、神の意志を語る語りである。

それゆえに、群衆はイエスのうちに神が遣わした王ダビデを見たのである。「ダビデの子にホサナ」とは、ダビデの子に向かって、「救い給え」と叫ぶことである。神が遣わされた者に「祝福あれ」とは、神を誉め称える讃美である。わたしの王がわたしに来たと讃美している群衆。彼らは、このとき真実に神を褒め称えた。たとえ後に、イエスを十字架につけろと叫ぶことになったとしても、このときは真実に叫んでいた。我々罪人は、ときに神に従い、神を褒め称えることがある。しかし、自らの目先の利益を考えるとき、神を捨て、人間に従う。このとき、イエスの王としてのイメージを受け入れた群衆も、すぐに人間に従うのである。神に従うことを自らが従えると思い込んでいるかぎり、すぐに人間に従う。自分が選び、自分が認める者が王であると考えるからである。

神が遣わしたお方が王である。神の意志に従うのが王である。わたしを神の意志に従わせるのがわたしの王である。この内実が自らのうちに満たされていなければ、我々はすぐに罪に流される。満たされる前に、すぐに従う者はすぐに捨てる者になる。イエスがたとえで語られたとおり、「石地に蒔かれた種」となってしまう。根がないので、すぐに枯れる。「茨の中に蒔かれた種」にもなる。迫害が迫るとすぐに捨ててしまう。内実のない存在は、すぐに従い、すぐに捨てる。これが群衆である。弟子たちは、ここに至るまでイエスに従ってきた。しかし、彼らは自らの救われ難さに絶望しなければならない。ペトロがイエスを否み、泣き崩れたように。我々は自らの救い難き罪人性を受け取らなければならない。そうでなければ、イエスがわたしを支配し給う支配に服することはないからである。わたしの王として、イエスを迎えることはないからである。イエスはそのために来給う。十字架に架かるために入城し給う。十字架に架からなければ、弟子たちの真実も、群衆の真実もあからさまにならないからである。

我々は、自らの罪深さがあからさまにされる十字架の許で、真実に自らを神に委ねるであろう。神に寄りすがるであろう。自らを支配し、従わせ給うお方に寄りすがるであろう。信仰とは寄りすがるお方を認め、そのお方の許で生きることである。従順であるということは、そのお方に寄りすがり、救いをいただくことである。造り替えていただくことである。自分自身ではどうにもしようのない自分自身をすべて神に委ねて、救い給えと叫ぶことである。自分自身に絶望していなければ、真実に叫ぶことはできない叫びである。

群衆は、イエスの行為に、神の語りを聞き、ホサナと叫んだ。しかし、彼らは自分に絶望していない。絶望に至らしめるのは十字架のみ。絶望を通っていなければ、自らの内実から叫ぶことはない。群衆の叫びがすぐに変わりうる叫びであるのは、イエスの語りに感応しただけだからである。イエスの語りを自らのうちに満たしていないからである。イエスの語りが我々のうちに満たされるとき、我々は絶望に至るであろう。なぜなら、わたしの王として来給うお方の前に、自らのすべてを投げ出すしかないほどの無に至っているからである。何もなし得ない存在が自らに絶望する存在。絶望の底で、神に出会う存在。出会い給うた神が支配する存在。すべてをみ前に投げ出すしかないところに至った者こそ、「わたしの王がわたしに来たる」と受け取る者である。

イエスはエルサレムに入城する。エルサレムのわたしに入城する。罪深き存在に入城する。入城し給うお方を迎える者は、満たされた語りを受け取る。イエスはわたしに入城しなければならない。わたしはイエスに入城していただかなければならない。わたしに入城してくださるために、イエスは来てくださったのだから。わたしのうちにイエスが入り来たり、わたしを造り替え、神に従う従順の信仰を起こし給う。十字架を通して起こし給う。

この聖なる週。我々は、一日一日入り来たり給うお方を受け入れながら歩いて行こう。十字架を見上げながら歩いて行こう。自らに絶望するに至るまで、十字架を見上げて行こう。神の語りがあなたのうちに満たされるために、あなたのうちに入りたいとイエスはロバに乗り給うのだ。柔和なお方として入り来たり給う。このお方を受け入れるのは、自らの罪深さに絶望する人のみ。絶望の底に沈んだあなたをイエスは見出し、救い給うであろう。

祈ります。

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