「あなたは言った」

2017年4月12日(聖週水曜日)

マタイによる福音書26章14節~25節

 

「あなたは言った」とイエスはユダに言う。どうして、ユダにだけ言うのだろうか。それはどのような意味であろうか。「あなたがそう言うのか」という問いかけなのか。あるいは、「あなたが自分を誤魔化して言っていることだ」という裁きなのか。どちらであろうとも、イエスはユダの本心を知っている。それゆえに、こう言ったのだ。「あなたは言った」ということをイエスはユダに確認させておられる。ユダは、確かにイエスを引き渡す約束をしている。その上で、イエスに向かって「まさかわたしではないですよね」と言うのである。これは、ユダ自身が誤魔化しているのだが、その誤魔化しをイエスはユダに認めさせるために「あなたは言った」と言うのである。

我々は、自分を誤魔化すためにいろいろと言い立てるものである。嘘をついているときほど、言葉数は多い。相手に悟られないために、あれこれと言うのである。それが罪の現実である。アダムとエヴァも、堕罪の後、神にいろいろと言い立てている。自らの背きを蛇の所為にし、女の所為にし、最終的に神の所為にするまでに言い立てている。言葉数が増えるほどに、自らの罪を誤魔化すのである。

真実を生きている存在は沈黙しているものである。行ったことが善きことである場合、「なすべきことをなしただけ」と沈黙する。誇るとすれば神を誇る。悪しきことを行った場合も、「なしてはならないことをなしてしまいました」と沈黙して、悔い改める。これが、信仰が真実である場合の人間の姿である。しかし、罪を犯している場合は、殊更に自己弁護して言い立てるものである。

それでも、ユダが言った言葉は、他の弟子たちと同じ言葉であり、殊更に言い立てているとは言い難い。言い難いが、イエスはあえてここで言うのだ。「あなたは言った」と。他の弟子たちには何も言わず、ユダにだけ言う。イエスはユダが祭司長たちに言ったことを知っていて、こう言うのである。それは、ユダに自分が言ったことを認めさせるための言葉。我々は自分が言った言葉を、行った行為を認めなければ、罪に飲み込まれてしまう。自分を誤魔化し、他者を誤魔化しているかぎり、悔い改める機会を逸してしまう。イエスはユダを愛し、彼が悔い改めるために「あなたは言った」と言うのである。

それでも、ユダがイエスを引き渡さなければ、十字架は実現しないのではないのか。実現させるために、ユダは用いられたのではないのか。いや、ユダは神に用いられたのではなく、罪に支配されたのである。その罪の結果を神は人間の救いのために用い給うのである。それゆえに、ユダが、自分がイエスを引き渡すことで救いが実現したではないかと抗弁することはできない。神は、如何なることがあろうとも、救いを実現し給うお方である。それが罪の結果であろうとも、信仰の結果であろうとも、神はご自身の救いの計画を実現し給うのである。

ユダは、この神の計画を実現するために、イエスを引き渡したわけではない。むしろ、自分の思いを実現するためにイエスを引き渡した。人間の思いが人間の行為の主体だからである。ユダの思いがユダの行為の主体である。それゆえに、ユダの思いは行われた行為に現れている。イエスを引き渡す対価を求めているからである。イエスを売り渡すことを求めたユダ。従って、ユダは神の計画を実現するために、イエスを引き渡したのではない。もしも、ユダが引き渡すことで救いが実現するのだと思っていたなら、ユダは対価を求めなかったであろう。対価を求めたということにおいて、ユダはイエスを見捨てたのである。対価と引き替えにしたのである。さらに、ユダは、イエスを指し示すために、口づけすることをも祭司長たちに言っていた。ユダは、イエス引き渡しのために、多くの言葉を語っている。そのような言葉も含めて、イエスはユダに言う。「あなたは言った」と。

ユダはこう言われて何も応えず、イエスを引き渡すまで沈黙している。最後の晩餐の席にもそのままいたようである。沈黙しているユダは悔い改めているのだろうか。ユダがここで、イエスの引き渡しの計画を変更していれば、悔い改めていたと言えるであろう。ユダは計画を変更していない。それゆえに、イエスが「あなたは言った」と述べたことから何も受け取っていない。ユダは、イエスの言を聞いていないのである。ユダの沈黙は、イエスの言を聞かず、自分の計画に集中している沈黙である。このような沈黙もあるということは、沈黙であるから善きことであるとは言えない。その内実がどこから発しているかが問題である。それゆえに、イエスは「あなたは言った」と言うのかも知れない。言ったのはあなたなのだという意味である。あなた自身のうちから発せられた言葉であるとイエスは言うのだ。言った言の責任はあなたにあるのだという意味である。言った後、沈黙しても言った責任は消えない。しかし、言っただけであれば、変更可能である。それゆえに、責任を問われて、確かに言ったと認め、責任を負うならば、変更するであろう。しかし、変更しないがゆえに、責任は負わない。いや、本人は負っているつもりである。それでも、何もしないとすれば、責任回避しているのである。仕方ないではないかと。変更不能だったのだからと。こうして、我々は責任回避する。

それでも、ことが起こってしまった後、悔い改めて、神の前にひれ伏すならば神は赦してくださるであろう。我々には常に悔い改めの機会が備えられている。イエスは、その機会に気づかせるために言ったのだ。「あなたは言った」と。

正確にはユダはこう言った。「まさかわたしのことではないですよね、先生」と。他の弟子たちはこう言った。「まさかわたしのことではないですよね、主よ」と。ユダは先生と言い、他の弟子たちは主と言う。ここに、ユダのイエスに対する評価がある。他の弟子たちは、自らを支配する主として全面的に委ねている。しかし、ユダは教えの教師としてイエスを捉えている。教師であることは主であることと同じであろうか。主は、生のすべてを支配する存在である。教師は、学びにおいてだけ認められる存在である。ユダはイエスをそのように捉えていた。それゆえに、ユダにとってイエスは自らのすべてを委ねる存在ではなかったということである。

ペトロは、十字架の前に、イエスを三度否んだが、すぐに泣き崩れている。ペトロは恐れに取り憑かれて、否んでしまった。しかし、自らの弱さによって、イエスを否んだことに痛みを感じ、泣いたのである。それは、自らのいのちを失ったような痛みであったであろう。ところが、ユダに関してはそのような記述はない。ユダは泣き崩れたのだろうか。27章4節では「後悔した」と訳されている。この言葉はメタメロマイというギリシア語で、個々の事柄に関しての変更を意味する言葉である。「悔い改め」と訳されるメタノイアが心の向き全体を変えることとは大きな違いがある。ユダは、自分が行った個々の事柄を修正しようと、あるいは無しにしようと銀貨を祭司長たちに返したのである。それは、自己の責任を回避しようとする行為である。彼は自己自身に絶望していない。それゆえに、ペトロの場合とは大きく異なっているのである。

イエスがユダのことを「彼に良かった、もし、その人間が生まれていなければ」と言うのは、ユダ自身が生まれているがゆえに、不幸であるという意味である。生まれた不幸。それは、悔い改めに至らないこと。悔い改めを、個々の事柄の変更に貶めてしまう愚かさ。自らの生のすべてに絶望しないこと。修正可能だと思い込むこと。取り返しのつかないことを認めることができないこと。使徒パウロが言うように、「誰がわたしを救うのだろうか」という救われ難さの底に沈んでしまうことが悔い改めである。そこに至らず、個々の修正で事足りると考えるほど愚かなことはない。ユダの姿から、我々は真実に悔い改めること、自己への絶望を良く良く受け取らなければならない。この聖なる週、自己に絶望することにおいて、救い給うお方を仰ぐことができますように。十字架の主は、あなたの全存在の救いのために、十字架を負われたのだから。

祈ります。

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