「仕える支配」

2017年4月13日(聖週木曜日)

ヨハネによる福音書13章1節~17節

 

「奴隷は、彼の主より大いなる者ではない。使者は、彼の派遣した者より大いなる者ではない。もし、このことをあなたがたが知ってしまっているなら、あなたがたは幸いな者たちである。もし、あなたがたがそれを行うなら。」とイエスは弟子たちに言う。洗足の意味をこのように語る。主を越えることはできないという意味であるが、それを知ってしまっていること、それを行うことで、幸いな者として生きることになるとイエスは言う。イエスは、弟子たちの主としてこう語る。つまり、イエスを越えることはできないということを認識するようにと勧めるのである。主とは、主人とも訳されるが、奴隷を支配する存在である。主人であろうと、主であろうと、奴隷のすべてはその支配者にかかっている。奴隷が主を越えることはできないし、使者は派遣者を越えることはできない。あくまで仕える存在である。

ところが、その主であるイエスが弟子たちに仕える。洗足を通して、仕えることを教える。仕える者が主であると教える。そうであれば、主を越えることができない奴隷は、主に仕えられて、主の支配の中で仕えるものとされるということである。主の奉仕に支えられて、仕えることができるということである。このことを知ってしまっているならば、あなたがたは幸いな者たちであるとイエスは言う。そして、それを行うならばと。仕えられた者が仕えることを行うとき、主を越えることができないということを知ってしまっているということである。我々が仕えることは、主に仕えられるという経験を通して、真実な奉仕になるということである。

しかし、このイエスの言は不思議である。最低の奴隷に仕えた主を奴隷は越えることができないということは、主がゼロ地点にいるとすれば、奴隷はゼロではなく、マイナス地点にいる。さらにその下へと主は降って、奴隷に仕える。下に行くことを越えることができないということになる。奴隷はマイナス地点にいる存在であるということは、我々人間の罪は、マイナス地点にあるということである。主がゼロに立っているならば、奴隷はマイナスに立っている。その奴隷に仕える主は、さらにマイナスに身を落とし給うたということである。そうでなければ、主が奴隷に仕えることはできない。イエスは、主として、奴隷以下となり、最低のさらに下において弟子たちに仕えたのである。これがフィリピの信徒への手紙2章6節以下で歌われているキリスト讃歌の意味である。

イエスはこの洗足を通して、主は上から支配するのではなく、下から支配するということを教えておられる。下から支配するということは、下から支えることである。これ以上堕ちないように支えるのが主だとイエスは語っておられるのだ。それがキリストの十字架の意味である。従って、十字架は最低のところに堕ちた存在のさらに下に降って、支え、ゼロ地点へと復帰させる力である。主イエスが示された洗足の行為は、十字架の主によってのみ罪が清められることを語っている。この主の他には救いはない。なぜなら、最低のさらに下まで降り給う主はいないからである。

この世における主は、上から支配する。奴隷たちに命じ、強制し、奴隷たちを使用する。この世の価値においては、上から支配しなければ支配できないと考える。支配は上からの強制であると考える。ところが、イエスは下からの支配。支える支配。仕える支配を語る。それは洗足という行為のようなものだと語っておられる。イエスはご自身が一人ひとりの足を洗う主であると語っておられる。我々の罪は、足にまとわりつく埃のようなもの。洗っても洗っても、すぐに汚れてしまう。すぐに埃まみれになる。すぐに罪に流されてしまう。それゆえに、足を洗っていただくことが日々必要なのである。この洗足が、聖餐の意味を指し示している。洗礼によって、罪赦された者が、この世で生きて行く中で、日々汚れてしまうのである。我々は、日々罪の中に足を浸しているようなものである。油断すれば、すぐに罪にまみれ、汚れてしまう。洗礼を受けても、汚れは日々新たについてしまう。それゆえに、主は聖餐を設定された。

ヨハネは、食卓の上の聖餐の意味を、食卓の下の洗足という形で語っている。洗礼を受けた者が、日々汚されていく罪から清められるために、聖餐は与えられている。聖餐の度に、我々はそれまでに汚れた足を洗ってもらうようなものである。聖餐は、罪に汚れたわたしの罪を赦し、永遠のいのちへと導く力である。洗礼はただ一回。しかし、聖餐は繰り返される。そこにはこの洗足の意味が込められているのだ。

我々は、一度洗礼を受ければ、それで事足れりと思ってはならない。罪は、この礼拝堂を出てすぐにでも我々を襲うのである。そのような危険の中に生きざるを得ない我々罪人のため、主は聖餐を設定してくださった。聖餐にたびたび与り、汚れた足を洗っていただき、新たに信仰の道を歩み出す。聖餐がなければ、我々は罪に汚れたままに、罪に流され、罪の深みに落ち込んでしまう。それゆえに、聖餐を繰り返しうけるようにと、主は与えてくださっている。

さらに、主が我々に与えてくださる聖餐に与ることで、あなたのうちにキリストが形作られていく。仕える主であるキリストが形作られていく。キリストは、主であるがゆえに仕えられる必要のないお方である。そのお方は、ご自身のいのちを我々に仕えるためにお使いになる。それゆえに、我々のうちにキリストが形作られるとき、我々もキリストのように自分のいのちを他者のために使う存在とされていくのである。それがわたしのうちにキリストが形作られることである。

奴隷に仕える主イエスは、そのようにして、我々をご自身のものとしてくださる。仕えられた奴隷として、我々は他者に仕える。仕えてくださったお方に清められた足を使って、他者のために仕える。これが今日、イエスが弟子たちに、そして我々に語っておられる信仰の生である。この信仰に生きるのは、自らが罪の奴隷であることを知る者である。

我々は罪の奴隷である。詩編51編7節に歌われているとおり、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」ということが、人間の原罪の姿である。人間は母の胎にあるときから罪のうちにある。自ら良くなること、信仰を持つことはできないと、アウグスブルク信仰告白に語られているとおりである。そうであれば、我々は自分自身が罪の奴隷であることを認めなければならない。罪の自覚において、ようやく我々は主の真理の言葉に従うようにされるのである。罪の奴隷であることを知るがゆえに、我々は救い給うお方に祈り求める。すぐに罪に汚れ、流されてしまうことを知るがゆえに、自己に絶望せざるを得ない。しかし、その罪の底に、主は降り給い、我々を支えてくださる。

我々の罪のゆえに、十字架に架けられた主イエスは、我々の罪の底に降ってくださるお方である。罪深き人間がイエスを十字架に架けることを、主は引き受けてくださった。この引き受けを通して、罪深き人間のさらに下に降ってくださったのだ。こうして、主は我々を救い給う。我々の罪の底のさらに下に降り給うたイエスが、我らの主。このお方において、すべての罪の根源、原罪が支配されている。下から支配されている。それゆえに、我々は自らの罪の底で、主に出会うことができるのである。

使徒パウロが絶望の底において、神を讃美するのは、そのような事態である。我々が罪の底に沈んでしまったところに、主はいまし給う。主は降り給い、我らを救い給う。自ら罪の中に身を沈め給うお方こそ、我らの主イエス・キリスト。このお方の死を告げ知らせる聖餐を通して、我々は新たにされ、主に従う生を生き続けることができる。今日も主に仕えていただく聖餐を感謝していただこう。主はあなたの汚れやすい、罪深いあなた自身を清め給う。聖餐を通して、主の洗足に与り、生きて行こう。主の恵みに支えられ、他者に仕える者として生きていこう。あなたの足を洗い給う主があなたの主。

祈ります。

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