「恐れの外へ」

2017年4月14日(聖週金曜日)

ヨハネによる福音書19章17節~30節

 

「彼は自分に十字架を背負って、出て行った、頭蓋骨の場所と言われるゴルゴタへ」と言われている。イエスはゴルゴタ、頭蓋骨の場所、死者の場所へ出て行った。それは町の外にある。町の外に死者の場所がある。頭蓋骨の場所がある。死が支配する場所がある。死から守ると思われていた町からイエスは出て行く。イエスは死を支配するために出て行く。

町とは、恐れの場所。町はヘブライ語で恐れを意味する。敵に襲われることの恐れ、野獣に襲われることの恐れから、人間は町を造った。高い壁を建て、自分たちのいのちを守るために町を造った。その町からイエスは出て行く。死の場所へと出て行く。十字架の場所へと出て行く。死の恐れに支配されている人間を解放するために出て行く。

人間は死を恐れる。堕罪の結果、死が入り込んできたからである。死を罪の結果と無意識に感じるがゆえに恐れる。永遠の滅びを感じるがゆえに恐れる。死は人間の根源に横たわっている。罪の中に横たわっている。人間の直接的感覚においては、死と罪とは結びつかないかも知れない。人間の根源的な魂において認識されている罪と死の関係。それが我々を町の建設へと駆り立てた。イエスは人間が自分を守ろうとする町の外へと出て行く。我々は自分で守ることができると思い上がっている。町を造れば安心できると思い込んでいる。それは恐れを克服することではない。かえって、恐れに支配されることである。それゆえに、他者を死に至らしめても自分を守るのである。我々の殺人という罪は、死への根源的恐れから来たるのである。

死への恐れは、死から逃れることでは、克服することはできない。むしろ、死に入っていくことが必要なのである。それゆえに、イエスは死の場所へと出て行く。死を克服するために、死への恐れである町から出て行き、死の場所へと入っていく。使徒パウロが第一コリント10章13節で言う通り、「あなたがたの試みは、人間的なもの以外を取らなかった。しかし、神は信実な方。この方は、あなたがたが可能であることを越えて試みられることを許さないだけではなく、試みと共にあなたがたが耐えることが可能である出口を作られる。」と言われている。試み、試練は被る苦難。しかし、神は出口を造るお方。それゆえに、「苦難を通って、出口に至る」のである。そのとき、神は我々と共にいて、出口を造ってくださるのだ。出口というものは試練を通らなければ至ることができないものである。それゆえ、イエスは死の場所へと出て行ったのである。

イエスは、負わされた十字架を自分で背負ったと言われている。負わされるものは、自分で負うのではない。しかし、負わされるものを自分で背負うということは可能である。これが、苦難が受難になるということである。苦難トリプシスは人間が避けることができないものである。ヨハネによる福音書16章33節でイエスが弟子たちに言うとおり、「あなたがたは、世にあって、苦難を持っている」のである。「しかし、勇気を出しなさい、わたしは世に勝利してしまっている」とおっしゃっていた。イエスは苦難を引き受けて、世に勝利してしまっているお方である。苦難は引き受けるとき、受難となる。受難パテーマは負わされたものを自分のこととして引き受け、負うことを意味する。苦難は誰にでも起こる。しかし、受難は主体的に負うものにしか起こらない。イエスは十字架を負わされたのではなく、負わされた十字架を自分で背負ったのである。ここにイエスの十字架の引き受けがある。イエスは十字架を引き受けた。それは、神が負わせたというよりも、神のゆえに負ったことである。神に従うことのゆえに、イエスは十字架を背負ったのである。すべてのことは神が生じさせておられるからである。

ルターは「奴隷的意志について」の中で、このようなことを語っている。神の言が語られたとき、神の言に従って聞く者と、神の言に逆らって聞く者とが生じる。それは、どちらも神の言が生じさせたことである。それゆえに、十字架をイエスに負わせた人間の罪は、神の言のゆえに起こっている。神の言に逆らって起こっている。そして、神の言に従うイエスは、神の言に逆らって起こっている神の言の結果を、自ら引き受けるのである。究極的には、イエスは神の言に従って、罪の結果を引き受けている。それゆえに、イエスの十字架は神の言が起こしたものであり、神の言ゆえにイエスは受難するのである。十字架は神の言に逆らう人間がイエスを十字架に架けたことである。しかし、神の言によって現れた人間の罪が起こした十字架を引き受けることによって、イエスは神の言に従っている。従って、神の言が十字架を起こし、神の言が受難を起こす。

イエスが自分に十字架を背負ったということが、イエスの神への従順の姿である。神への従順の中で、イエスは町の外へ出て行く。町の外に出て行ってもなお、神の従順を生きるイエスは神の言に従って生きている。それゆえに、町の外であろうとも、神の言が生きて働いているのである。そこに復活に至る契機もある。

さらに、イエスが十字架の上で叫んだ「終極に達した」という言は、「完成した」とも「終わった」とも訳されるが、イエスがなすべきすべてを従順に生きたことを語っている。それは、人間の死への恐れを克服するために、イエスが町の外へ出て行ったことによって、完成された救いを意味している。この救いは、死への恐れからの解放であり、出口である。この出口から出ていくことが復活なのである。それゆえに、墓は空である。墓は死からいのちへの通り道なのである。

イエスは死の中へと入っていって、出口を出て行く。神が造り出した出口を出て行く。出口に行くためには、死を通らなければならない。この世における生が終極に達していなければならない。死という人間の生の終極に達したことを通して、イエスは救いを完成したのである。十字架は、人間的な生の終極に達した出来事である。しかし、イエスが人間として最低のところにおいて、すべてを造り替える出来事である。死を働かなくする出来事が十字架である。イエスが死へと入っていき、死を引き受けて、神の言に従順に従ったがゆえである。それゆえに、十字架はイエスの使命が終極に達した出来事である。神の救いの約束が終極に達した出来事である。終極に達したイエスにおいて、死はもはや死ではなく、恐れる必要のないものとされている。

死を恐れるということは、神を畏れないことである。なぜなら、死を恐れることは罪の自覚からの逃避だからである。罪の自覚からの逃避は神への敵対である。死を恐れるがゆえに、罪の自覚から逃避してしまう。死を恐れて、それを見ないようにすることが逃避である。町はその象徴。自分たちが死を恐れないように町を建てることは、死から逃げることである。人間は死から逃避し、他者を死に至らしめ、自らを死の支配から守ろうとする。しかし、死を克服することは人間にはできない。人間的克服は、対症療法的に、現れたところだけを取り除くようなものだから。イエスが実現したのは、根源的な死の克服である。もはや恐れる必要はない。十字架の足下に、死は踏みつけられ、働かなくされている。

死の場所へと出て行ったイエスによって、我々は死から解放されている。このお方の死が、死の克服の力として我々すべてのキリスト者の死を包む。それゆえに、死はキリスト者を襲うことはない。終極に達したキリストのものである我らは、死を越えて、キリストに従って前進することができる。神の言に従うように前進することができる。

この世にあって、キリストに従う者は、死を克服したお方に従って、生きる。我々は何も恐れる必要がない。イエスにおいて、すべてのことが終極に達してしまっているのだから。人間も悪も罪も恐れることはない。キリストはこれらすべてを引き受け、勝利を実現してくださったのだから。この出来事を起こし給うた神に感謝し、十字架を誉め称えよう。キリストの受難の力が十字架から溢れている。我々は、何ものも恐れることなく、苦難を引き受け生きて行こう、キリストの十字架の力によって、キリストに従って。

祈ります。

Comments are closed.