「すがりつくな」

2017年4月16日(復活祭)

ヨハネによる福音書20章1節~17節

 

「わたしにすがりつくな」とイエスは、マグダラのマリアに言う。ハプトーというギリシア語が使われている。この言葉は「くっつく」という意味である。くっついて離れないという意味である。従って、イエスはマリアに「離れろ」と言ったことになる。「わたしにくっついてはならない、離れなさい」と。この言葉は、ヨハネによる福音書ではここにしか出てこない。他の福音書では、イエスが病人に触れて癒すときに使われているが、イエスが病人にくっつく場合と病人がイエスにくっつく場合とがある。病人たちは、イエスから出て行く神の力によって癒されている。イエスにすがりつくこと、くっつくことは悪いことではないはずである。ところが、ヨハネでは悪いことであるかのように言われている。マグダラのマリアが地上のイエスにすがりついているからである。

マリアは、空の墓を見て、途方に暮れて、墓の傍らに立っている。中を見ると、二人の天使たちが見える。彼らに「なぜ泣いているのか」と問われ、マリアは言う。「わたしの主を彼らが取りのけた」と。そして、こう言う。「わたしは知ってしまっていないのです。彼らが彼をどこに置いたかを」と。マリアはここでイエスを遺体として探している。遺体であるがゆえに、誰かがどこかに置くことができるのだと考えている。それは当然である。マリアが探しているのは、地上のイエスの名残であった。ところが、空の墓を見て、求めていた遺体がないことで途方に暮れたのである。

彼女は、主であり、師であるイエスを取りのけた誰かの所為で、自分はイエスの遺体に触れて泣くことができなくなったと考えている。彼女は、イエスの名残を惜しむために墓に来た。それなのに、イエスの遺体に触れることもできない。自分の思いをどこに持っていけば良いのかと途方に暮れてしまったのだ。そのようなマリアの後ろに、イエスが立ってしまっていた。振り向いたマリアに言う。「なぜ泣いているのか。何を探しているのか」と。「誰を探しているのか」とも訳せるが、「何を探しているのか」と訳せる疑問代名詞である。マリアが「主を取りのけた」誰かがいると考えているときの「主」も本来の主ではなく、「わたしの主として生きていたお方」という意味である。死んでしまった生きていたお方の名残を語っているのである。イエスがマリアに「何を探しているのか」と聞いたのも、マリアが生きている主を探しているのではないということが分かっていたからである。マリアは、そのイエスの言葉に応えて、「あなたが彼を運んだのなら、どこに置いたかをわたしに言ってください」と言う。そして、「わたしは、また、彼を取りのけるでしょう」と応えている。マリアは、自分がイエスを移動することができる物体と考えているのである。

空の墓に出会ったマリアは、自然的思考によって、誰かがイエスの遺体を運んで、どこかに置いたと認識している。これが通常の認識である。空の墓を見て、イエスが復活したと認識することはないのだ。そのマリアに向かって、イエスは「マリア」と呼びかける。そのとき、園丁だと思っていた存在をイエスだと認識したマリアは、イエスにすがりつこうとした。イエスはマリアに「わたしにすがりつくな」と制止した。マリアが、未だ復活を認識していないからである。

マリアがイエスにすがりつこうとしたのは、イエスへの思いが溢れてのことだったであろう。その思いをイエスは知っている。しかし、イエスは言う。「わたしにすがりつくな」と。マリアの感情の溢れ出しをイエスは制止する。どうしてなのか。マリアを信仰的認識へと導くためである。自然的認識から信仰的認識に開かれるために、イエスはマリアの思いを制止する。信仰は自然的感情の溢れ出しではないからである。信仰は感情ではなく、理性である。人間的信仰は感情である。それゆえに、わたしが信じているという感覚を重要視する。わたしが見たという感覚を第一にする。信仰はその反対である。イエスがわたしに信仰を与え、信じる者にしてくださったという理性的判断が、信仰である。イエスがわたしの罪を担って、十字架に磔にしてくださったと認識する理性的判断である。ただし、理性的判断とは言え、自然的原理に従って判断するわけではない。自然的判断であれば、マリアのように、空の墓を見て、イエスの遺体が移動されたと認識するだけである。空の墓を見て、復活したと認識するのは、信仰的理性の判断である。ここに至るには、信仰的理性を開かれなければならない。そのために、イエスは「わたしにすがりつくな」とおっしゃるのだ。

ヨハネによる福音書では、山上の変容の出来事が記されていない。山上の変容の出来事が語っているのも、イエスをペトロたち人間が祭ることが信仰なのではなく、イエスに聞くことが信仰なのだということである。山上の変容で語られていた事柄が、ヨハネではマリアに語られているのである。その際、父の許への昇天の告知もマリアに行われている。「未だ、わたしは昇ってしまっていないから、わたしにすがりつくな」とイエスはマリアに言う。それは、父の許へと昇ってしまうことに基づいて、すべての地上的なものが克服されるからである。それゆえに、マリアはイエスに「すがりつくな」と言われたにも関わらず、意気消沈することなく、弟子たちに知らせに走るのである。「わたしは主を見てしまっている」と。この現在完了形の言葉が語っているのは、マリアが見てしまっている主と共に生きているということである。見てしまっている主とは、生きている主であり、マリアが弟子たちに知らせに走る途上においても、マリアが見てしまっているお方として、主はマリアを支えているのである。イエスがマリアに与えた信仰は、見た結果信じることではなく、見てしまっているという信仰そのものなのである。マリアは、自分の目で見ているというよりも、自分に与えられた信仰的理性で見ている。マリアに与えられた信仰が、マリアの信仰的理性を開き、常に現前し給うイエスを見せている。それは、イエスの体に触れること、くっつくことでは実現しない。むしろ、すがりつかないことによって、実現する。なぜなら、マリアがすがりついて体で感じることによってではなく、イエスから言われた言によって、信じるようにされるからである。マリアはイエスを見た結果信じたのではない。イエスによって語られた言葉によって信じたのである。信じていなければ、イエスが語ったことを弟子たちに知らせに走ることはないからである。イエスは、マリアの自然的感情による信仰を求めなかった。マリアの理性を開き、信仰的理性によって信じる信仰を与えてくださった。

このとき、マリアはイエスを信じているとは言わない。見たから信じたとも言わない。イエスに言われたことをただ伝えるだけである。それこそが、「わたしは主を見てしまっている」という信仰的理性を生きることなのである。それはまた、「わたしは主に見られてしまっている」という信仰の開けでもある。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一13章12節で語っているとおりである。「何故なら、今鏡を通して、謎のうちに、わたしたちは見ているから。しかし、そのとき、顔に向かって顔を。今、断片からわたしは認識している。しかし、そのとき、わたしは判別するであろう、判別されていたように」と。地上的に、自然的に認識するときには、断片的であり、謎のうちに見ているようなものである。しかし、信仰のうちに見るとき、神によって判別されていたようにわたしも神を判別する。そして、わたし自身をも判別するのである。マリアは、この信仰に開かれて、弟子たちの許へ知らせに向かったのである。主を見てしまっている自分と主に見られてしまっている自分の中で、マリアは真実の自分自身を認め、イエスに知られてしまっている自分自身を生きる者とされたのである。マリアに信仰を与えるために、「すがりつくな」とイエスは言われた。主の復活は、一人ひとりが信仰において生きる出来事である。その信仰を新たにするため、主は聖餐を設定してくださった。あなたが主を見てしまっている者として生きるために、復活してくださった主を誉め称えよう。

主のご復活、おめでとうございます。祈ります。

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