「恐れを包む平和」

2017年4月23日(復活後第1主日)

ヨハネによる福音書20章19節~23節

 

「平和、あなたがたに」とイエスは言う。ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた弟子たちの真ん中に立って言う。「平和、あなたがたに」と。イエスが言う「平和」とは、神のシャロームのことである。平和という訳よりも「全体性」と訳した方が良いように思える。なぜなら、平和とは戦争の反対のことや、外面的安心のことではないからである。弟子たちが断片的に、対症療法的に生きていたところから、全体性を回復されるようにとイエスは「シャローム、あなたがたに」と言うのだから。

「平和」と訳されるギリシア語のエイレネーは、ギリシア語で理解してはならない言葉である。ヘブライ語で理解すべき言葉である。ここでイエスが語った言葉は、ヘブライ語では「シャロームハー」である。「シャローム、あなたがたに」という言葉である。それは、シャロームがあなたがたを包むようにという意味である。もちろん、普段の挨拶の言葉なので、「こんにちは」と訳す人もいる。しかし、その意味するところは「シャロームがあなたがたを包むように」という意味なのである。

神のシャロームは、欠けのない状態を表している。欠けがないので、完全である球体のようなイメージだと言われる。完全な球体は、フリードリッヒ・フレーベルが「統一」と語った事柄である。統一体が球体である。球体が全体性を表す。欠けのない状態は球体なのである。この球体であるシャロームがあなたがたを包むようにとイエスはおっしゃった。弟子たちが断片からしか考えられなくなっていたからである。ユダヤ人を恐れていたということも、断片的なことなのである。自分たちがイエスの輩であることで、ユダヤ人からイエスのように十字架に架けられるのではないかと恐れているのである。この恐れから逃れるために、家の戸に鍵をかけている弟子たち。彼らは鍵をかけていればユダヤ人から逃れられると思っている。非常に断片的な思考である。対症療法的思考である。現れていることを取り除けば、それで逃れられると思っている思考である。自分たちがその恐れを取り除くことができると考えている思考である。結局、恐れの中に留まっているのに、取り除いたと考えている。これが通常の人間の思考なのである。この思考から抜け出すには、恐れの中に入らなければならない。しかし、入る前に、全体性を回復されていなければならないのだ。いや、全体性を回復されているならば、入ることができるのである。入ったときには、すべては神の力によって善きものとなっていくと信頼して入る。そして、そのとおりに何も揺るがされることなく、入っていくことができるのである。マルティン・ルターは「キリスト者の自由について」第15節の中で、こう言っている。「キリスト者は信仰によってすべてのものの上に高く挙げられて、霊的にすべてのものの主となるというわけである。なぜなら彼の救いを傷つけうるものはなにひとつないからである」と言って、「死や苦難ですらもわたしに仕えて、わたしの救いに役立つほかはないのである」と語っている。それが全体性の回復された状態、信仰のうちにある状態である。そのとき、我々は如何なる状況にあろうとも、すべてはわたしの救いを傷つけることはなく、すべてわたしの救いに役立つのだと、神を信頼するのである。「そこではよいものとか、悪いものとかいうものはなく、わたしが信仰をもつかぎり、すべてのものがわたしに仕えてわたしの益となる」ともルターは語り、「信仰だけでわたしには十分なのである」と語っている。これが神のシャロームに与って、包まれている状態である。すなわち、信仰を起こされている状態が、シャロームに包まれている状態である。そのとき、我々は恐れる必要はないのである。

イエスは、弟子たちの恐れを克服させるために言う、「シャローム、あなたがたに」と。これは、シャロームがあなたがたにあるようにという意味もあるが、シャロームはあなたがたを包んでいるのだという宣言でもある。宣言であるならば、これは祈願ではなく、現実を語っている言葉である。あなたがたはシャロームに包まれているのだ、という現実を認識させる宣言なのである。その言葉のうちに自らを預けるならば、シャロームに包まれている現実を生きることができる。預けないならば、生きることはできない。この預けることが、信仰なのである。イエスが宣言しているのだから、我々は「アーメン」と受け取るだけである。宣言されていることを「そのとおりなのだ」といただくだけである。そのとき、我々はシャロームに包まれているわたしを認識するであろう。それは、外面的安心ではなく、内面的安心である。

通常の安心は、外面的なものである。外側が安心であるならば安心だと思い込むことである。しかし、わたしのうちなる不安は解消されていない。それゆえに、外側の安心を何度も作り直さなければならない。こうして、いつまでも安心できない状態を生きるのである。しかし、内面的に安心を生きているならば、外面的に苦難の状態に置かれようとも安心である。神のシャロームに包まれていることは、外面的には何も見えない。むしろ、イエスが宣言しても、どこにそのシャロームがあるのかと探し回る。いや、イエスの宣言のうちにあるのに、宣言を認めないがゆえに、外側を探し回ることになる。しかし、イエスが宣言される言を「アーメン」と聞くだけで、我々は簡単にシャロームに入れられているわたしを認めることができるのだ。先のルターの言葉の通り、如何なることもわたしの救いを傷つけることはなく、すべてのことが苦難さえもわたしの救いに役立つということが生じるのである。これは、外面的に安心を確保しようとする立場からは、愚かだと思われるであろう。しかし、愚かにも神に信頼して、救われた多くの人がいるのだ。この世的には愚かであろうとも、神のうちにあっては賢いことである。なぜなら、神のシャロームのうちにあるとき、我々は自分が自分を救うことができないという真理を認めているからである。神こそが、わたしを救うことができるお方であると信頼しているからである。このとき、我々は信仰のうちにシャロームを生きている。全体性を回復されて生きている。全体性の回復は、本来のわたしの全体性が回復されることである。断片的に生きていたわたしが、全体性を回復されると、全体としてのわたしを生きることになる。わたしの外面も内面も神が守り給うことを信頼して生きることになる。そのとき、わたしは外面と内面を分ける必要はない。外面であろうと内面であろうと、わたしはわたしを守り給うお方によって、ありのままのわたしであることを生きることができるのである。内面的には、神を信頼しているので、外面的に自分で自分を守る必要はなくなり、争うこともなくなる。強い自分を見せる必要もなくなる。恐れて隠れることもなくなる。閉じていた戸を開けて、出て行くことができるようになる。

それゆえに、イエスは弟子たちに言う。「父がわたしを派遣したとちょうど同じように、わたしもまたあなたがたを送る」と。イエスは弟子たちに聖霊を与えて、外に出て行くように送る。あなたがたが手放すこととつかむことはそのとおりになると言う。派遣されたところで、あなたがたは手放して生きるのだと言うのである。彼らは、自分で自分の罪をつかんでいた。それゆえに、罪に縛られて、恐れに捕らわれていた。自分の罪を手放せば、自由になり、恐れることなく、出て行くことができる。同じように、他の人にもそうしなさいとイエスは勧める。他者の罪を手放して、彼らが神のシャロームに包まれるように、弟子たちは送られるのである。これが罪赦された者が罪赦す者として生きるということである。そのとき、自分も他者も自由を生きることができるであろう、神のシャロームのうちで。自分が他者の罪をつかんでいるかぎり、自分も不自由である。神が、あなたの罪を手放して、赦してくださったのに、あなたが他者の罪をつかむと、再び恐れに捕らわれ、不自由になってしまう。すべてのことがシャロームの中では益なのだ。すべての者が自由を生きるのだ。この真理を生きるために、あなたは遣わされる、神のシャロームの中で。

祈ります。

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