「一心に触れて」

2017年4月30日(復活後第2主日)

ヨハネによる福音書20章24節~29節

 

「不信仰者としてあなたは生じるな、むしろ信仰者として」とイエスはトマスに言う。「なる」と訳されるギリシア語ギノマイは、物事が生じることを表す。何事かが起こるときに使われる言葉である。神の創造のときにもギノマイが使われている。創世記の初めにおいて、「光あれ」と神は言うが、それは「存在し始める」ことを意味する。光が無かったがゆえに、神は「光が生ぜよ」とおっしゃった。そして「光があった」。この言葉は、「光が生じた」あるいは「光が存在し始めた」という意味である。従って、イエスはトマスに信仰者として生じることを命じたのである。それは、神の創造の言葉のように、復活のイエスがトマスに命じる言葉である。トマスは、イエスの命令の言葉によって、信仰者として生じたのである。

しかし、その後のイエスの言葉は「わたしを見て、信じたのか。幸いである、見ないで信じる者たちは」であった。それゆえに、トマスはご自分を見て信じたと、イエスが考えているように思える。ところが、イエスの命令の言葉に従って、トマスは信じる者に造られたのである。それゆえに、イエスがトマスに語る言葉は、このように解するべきであろう。「あなたは見て、信じたのか。そうではないのだ。あなたは見ないで信じる者たちの幸いを生きるのだ。なぜなら、わたしがあなたに命じて、信じる者として造ったのだから」と。トマスに、自らのうちに起こった信仰を「見ないで信じる者たちの幸いな信仰」として認めさせるために、イエスはトマスにこう言うのである。なぜなら、イエスは「信じる者として生ぜよ」と命じたのだから。あなたは見ることによって信じたのではなく、わたしの命令の言葉によって信じたのだとトマスにイエスは語っているのだ。

我々が「見て信じる」という場合、この信仰はわたしが確認したものを信じるということである。その場合、信仰は人間の側の確認作業によって生じることになる。神を信じる対象として、確認するのは人間であり、人間の側に主体がある。これは人間の信仰であり、人間が獲得した信仰となる。そのとき、神は信じられる対象となって、主体とはならない。

トマスの場合、イエスはご自身の手と脇腹を見せて、見ることで信じる者になったトマスだと思える。やはり、トマスが獲得した信仰であるかのようである。ところが、この場合も、トマスは自分の力でイエスを見ることはできなかったのである。イエスが、一週間前と同じように、弟子たちの真ん中に立って、「シャローム、あなたがたに」とおっしゃったのだ。そして、トマスが求めていたように、イエスはトマスにご自身の手と脇腹を見せた。イエスは、トマスが一週間前に語った言葉を知っていた。その場にいなかったにも関わらず、トマスが何を言っていたかをイエスは知っていたのである。そして、イエスはトマスに命じている。「信じる者として生ぜよ」と。見なければ信じないと言っていたトマスの心をイエスは受け止めて、「信じる者として生ぜよ」と、ご自身を現してくださったのだ。このイエスのトマスに向けた心に触れて、トマスはイエスの命令に従って、信じる者として生じたのである。トマスは、自らの不満な思いを捨てざるを得ないほどのイエスの一心に触れたのだ。イエスの命令とは、信じる者を創造する一つ心なのである。

このイエスの一心に触れて、トマスは信じる者として創造された。トマスを思うイエスの一心こそ、トマスの思いを捨てさせる力だった。トマスを信じる者として生じさせる言葉だった。我々が信じるということは、イエスが造り給う信仰者として生きることなのである。それゆえに、イエスは我々が信仰者として生じ続けるために、ご自身の体と血を与え続けてくださる聖餐を設定されたのである。聖餐にも、イエスの一心がある。ご自身が生じさせた信仰者が信仰者であり続けるために、ご自身の体と血を与え給うイエスなのだから。我々は、イエスのこの一心を受け取らなければ、信仰者として生じることはないのである。

イエスが命じ給う言葉は、イエスの心から溢れ出る言葉である。イエスの良き心から出てくる言葉こそ、イエスの心に従って、生じるべきものを生じさせる。イエスの言葉を聞いて、信じる者とされた我々は、その信仰をイエスの心から受けているのである。イエスの心から受け取らず、自分で確認して信じようとする者は、信仰を起こされることはない。自分で信じたと思っている者は、イエスが生ぜよと命じた信仰者ではないからである。

信仰はあくまで神に従う従順である。自分で確認して信じるときには、神に従うわけではない。自分の確認に従っている。それゆえに、自分が神なのである。自分が確認することによって信じる者は、自分が主体であり、神に従うのではなく、自分の理性に従っている。それゆえに、そのような信仰を獲得された信仰として、ルターは「悪だけを働く」信仰と呼んだ。「獲得された信仰は神の言葉を守らないばかりか、絶えず吐き出す」とも言っている。信仰が従順のことであるから、獲得された信仰は従順ではないということである。悪だけを働く信仰とは、信仰ではない。悪だけを働くのだから、自然的人間のままで信じると思っているのである。自然的人間は悪しか働かない。それゆえに、自然的人間のままでは信仰者ではない。自然的人間は、トマスが最初求めたように、見ること、確認することを求め、それによって信じることができるか否かを自分が決める。これは信仰ではないのは確かである。確認できるものを信じる必要はないからである。それは信仰ではなく、自分の心が造り出した信仰という幻影である。ルターが言うとおり、そのような信仰は悪だけを働く。なぜなら、神に従うことがないからである。

イエスは、トマスにこのようになって欲しくなかった。トマスの心の不満もイエスは理解していた。イエスはトマスに信仰者として生じることを求めていた。それゆえに、わざわざトマスの思いに従って、ご自身の手と脇腹を見せてくださったのだ。そこまでして、トマスの思いと向き合ってくださったイエスの一心に触れて、トマスは信仰者として生じることになったのだ。

イエスは、トマスに認めさせているのだ。トマスが見て信じたのではなく、見ないで信じる幸いを与えられたのだと。トマスが、自分自身の思いを捨てたのは、このイエスの心をいただいたからである。イエスは、弟子たち以後の人間たちにも、ご自身の一心を与えてくださった。トマスと同じように、我々が自分の思いを捨てて、イエスの言葉によって造られる信仰者とされるように、イエスは我々のうちに信仰を起こしてくださった。我々が信じる者として生じたのは、わたしが信じても良いと思ったからではない。イエスの思い、イエスの心に触れたからである。イエスの一心が、我々をキリスト者としているのだ。このお心のうちに、我々キリスト者のいのちがある。

そのような我々は、これから後も、キリストによって信じる者とされたことを守り続けなければならない。信仰者として生じた者でさえ、自分の信仰を自分の力で強くしようと思い上がるとき、獲得した信仰に陥ってしまうのだ。なぜなら、我々は未だ完全にキリスト者として生じてしまってはいないからである。我々はキリスト者になりつつある者である。完全なキリスト者に礼拝は必要ない。一人ひとりのうちにキリストが形作られているからである。しかし、我々は未だ完全にキリスト者として生じてしまってはいないのだ。未だ、罪の肉が我々のうちに残っていて、我々を悪しか行わない者へと誘うからである。それゆえに、キリストは、ご自身の体と血を与えて、我々のうちにキリストが形作られるまで命令を与え続けてくださるのだ。

今日、与えられる聖餐も、このキリストの一心が宿った天の食物。この天の恵みに与って、キリスト者として形作り給う神の御業に、我々自身のすべてを委ねよう。「不信仰者としてあなたは生じるな、むしろ信仰者として」とおっしゃるイエスの一心をいただき、イエスのお心に働いていただこう。十字架のイエスの御業を仰ぎつつ。

祈ります。

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