「羊飼いの戸」

2017年5月7日(復活後第3主日)

ヨハネによる福音書10章1節~16節

 

「わたしは羊たちの戸である」と7節でイエスは言う。2節では「戸を通って入る者が、羊たちの羊飼いである」とも語っている。イエスはご自身が戸を通って入った者としての羊飼いであり、ご自身が羊たちの戸であると語っている。イエスは戸なのか、戸を入る羊飼いなのか。この矛盾するような言明が意味しているのはいったい何であろうか。

これを理解するには「戸」というものが何であるかを考えなければならない。イエスは11節でこうおっしゃっている。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、彼の魂を置いている、羊たちのために」と。イエスは良い羊飼いが彼の魂を羊たちのために神の前に置く存在であると言う。その良い羊飼いイエスが「羊たちの戸」である。羊たちの戸は、羊たちのために魂を置く良い羊飼いである。従って、戸は、羊たちのために魂を置くことを表している。魂を神の前に置く、しかも羊たちのために置くこと。それが十字架なのである。イエスは十字架の主として良い羊飼いであり、十字架という戸を通った真実の羊飼いである。それゆえに、イエスという戸を通って入る羊たちは「いのちを持つ」のである。

ということは、真実の羊飼いが入る戸は十字架という戸である。真実の羊飼いのものである羊たちが入る戸も十字架という戸である。こうして、羊飼いの戸、十字架という戸が羊たちの戸となり、羊たちが真実の羊飼いのものであるか否かを見分けることにもなる。つまり、羊たちが苦難を通っていのちに入るとき、彼らはイエスの羊である。苦難を通らず、避けて入ろうとするとき、盗人と同じ羊である。羊飼いが通って行った戸を通ってこそ、我々はイエスの羊であり、良き羊飼いに信頼している羊たちである。苦難を避けているかぎり、我々はイエスの羊ではないのだ。なぜなら、イエスの羊はイエスを信頼するがゆえに、イエスが通った十字架という戸を通って、いのちを持つからである。

羊飼いの戸は十字架である。羊の囲いは復活のいのちに与る牧場である。この牧場は十字架の向こう、苦難の向こうにある広々とした世界である。その世界の戸は、見た目にはみすぼらしく思える。苦難の戸であるかぎり、我々人間にはみすぼらしい戸である。誰も入りたくないような戸である。イエスが別の福音書で語っておられるように「狭き戸」、「狭き門」である。決して広々としてはいない。一人ひとりが通るだけの戸。多くの人が入りたくなる戸ではない。多くの人が押し寄せもしない。そのような戸が羊飼いの戸であり、イエスの戸、十字架である。

この戸を入る羊たちは、イエスに知られている羊である。イエスが知っていることに基づいて、イエスを知っている羊である。イエスが、わたしのために魂を神の前に置いてくださったと知っている羊である。イエスはご自身の魂を十字架の上に置かれた。十字架にこそイエスの魂がある。イエスの魂がある十字架は、イエスが捨てられた十字架である。捨てられた十字架のうちにイエスの魂が置かれている。イエスが羊のために置いた魂がある。イエスが知っている羊のために置いた魂は、イエスを知っている羊しか認めることはできない。それゆえに、羊は最初からイエスの羊である。

しかし、イエスの羊であることを忘れてしまっている羊が、この世で迷っていた羊たちである。迷っていた羊たちは、イエスが自分たちのために魂を置いてくださった十字架を見上げて、わたしのための十字架であると目覚める。あの戸を入って行かれたお方の後をついていけば良いのだと目覚める。それがキリスト者である。キリスト者はイエスの羊であることに目覚めた者である。この目覚めを起こしたのは、イエスの声。イエスの声は十字架の上から聞こえてくる声。苦難の中から聞こえてくる声。苦難を引き受けて叫び給うお方の声。あなたを呼ぶ声。羊飼いの戸を通った声。羊たちを呼ぶ声が十字架の上から聞こえてくる。その声に耳を開かれるとき、我々はイエスの羊であることに目覚めたのだ。あそこにわたしの入るべき戸があると。イエスが入った戸が立っていると。わたしを導く声が聞こえると。

我々がイエスの羊であることを生きるには、我々が見失い、迷っていたことを知らなければならない。迷っていた我々の耳を開くために、イエスは十字架という苦難を引き受け給うた。十字架という苦難がいのちの扉であることを明らかにするために、十字架を引き受けられた。十字架は羊飼いの戸。羊たちのいのちの場所に入るための戸。

我々が迷っていたのは、美しい戸を入ろうとしていたからである。誰もが入りたくなる戸を入ろうとしていたからである。迷いは、自分にとって美しいという判断に従って生じる。我々は判断できると思うとき、判断を間違う。判断はわたしの判断であり、わたしが決める美しさ、良さである。そのとき、神の判断、神の見給う美しさ、良さは求められてはいない。人間的に評価される美しさしか求められてはいない。人間的に羨ましがられる良さしか求めてはいない。そのとき、我々はイエスの羊であっても、イエスの羊として生きていない。

イエスの羊は、イエスの羊として生きるとき、イエスの羊である。自分が判断する羊らしさを生きるとき、イエスの羊ではない。自分の判断における自分の羊である。キリスト者は、自分が判断するキリスト者らしさによってキリスト者であるのではない。イエスが呼ぶ声に従うとき、キリスト者である。イエスの言に従うとき、キリスト者である。キリスト者は、イエスの羊のように、羊飼いの戸を通る。苦難を引き受けて生きる。そのためには、イエスの声を聞き続けなければならない。イエスの声は十字架から聞こえてくる声。苦難を通って聞こえてくる声。苦難を引き受けるように励ます声。この声に導かれて、我々はキリスト者として生きる。キリスト者であることに目覚めて生きる。

我々がキリスト者になるのではない。キリスト者であることに基づいて、キリスト者として生きるとき、キリスト者である。我々はキリスト者である。イエスの声を聞いた羊である。イエスの戸を入った羊である。イエスがわたしのために魂を置いてくださったと信じる羊である。イエスの羊でなかったのであれば、イエスの声を聞くことはなかった。イエスの羊でなかったならば、聞いた声に従うこともなかった。イエスの羊でなければ、イエスの戸を入ることもなかった。苦難を引き受けて生きることもなかった。苦難の向こうにあるいのちに与ることもなかった。

あなたはイエスの羊である。イエスの声を聞いている羊である。イエスがあなたのために魂を置いてくださった羊である。如何なることがあろうとも、イエスの羊である。如何なる状況に置かれようとも、イエスの羊である。イエスの羊であることを生きるために、自分の判断を捨てた羊である。ただ、イエスに信頼した羊である。あなたの力も、知恵も、イエスの羊であることを造り出すことはできない。神が、あなたをイエスの羊として造っておられなければ、あなたはイエスの羊であることはできないのだ。それゆえに、我々はキリスト者であることで、自分を誇ることはできない。神の憐れみによって、失われていたわたしが回復されたことを感謝するだけである。神の恵みによって、イエスの羊であるわたしを取り戻しただけである。あなたの力によって、イエスの羊になったわけではない。イエスの声が、十字架の声が、あなたの耳を開いてくださった。この恵みに感謝して生きる者がイエスの羊であり、キリスト者である。

あなたがキリスト者であることを忘れることがないようにと、イエスは聖餐を設定してくださった。イエスの体と血に与るたびに、我々は思い起こす。羊飼いの戸を通って、真実の羊飼いとして生きてくださったお方が、わたしをご自分の羊として回復してくださったことを。あなたがいのちに与るために、ご自身の魂を十字架の上に置いてくださったイエスが、あなたのうちにキリストを形作ってくださる。あなたはイエスの羊。あなたはキリストのもの。あなたはいのちに与るために、呼ばれた者。感謝して、いただき、キリストのいのちが溢れ出すように、生きて行こう。羊飼いの戸を通って。

祈ります。

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