「父の家のうちに」

2017年5月14日(復活後第4主日)

ヨハネによる福音書14章1節~14節

 

「わたしの父の家のうちに、多くの留まるところがある」とイエスは言う。信仰というものが、「イエスのうちへと信じる」という言い方になっているのは、信仰はイエスを対象として信じるのではなく、イエスのうちへと、神のうちへと入って、信頼していることだと言える。そのような意味においては、父の家のうちに我々が留まるところ、生活するところがたくさんあるということである。イエスはそのように弟子たちに語られた。信仰は、イエスの父の家のうちに住むことである。

住むということ、留まるということは、そこで生活することを意味している。従って、信仰とはイエスの父の家のうちで生活することなのである。生活するということは、生のすべてを行うことである。それゆえに、信仰とはイエスの父の家のうちに、わたしの生のすべてがあると生きることである。では、父の家はどこにあるのか。天なのか、神の国なのか、死んだ先のことなのか。イエスがおっしゃる父の許に行くということは、死んでから行くことなのか。いや、生きていて、イエスの父の家のうちに生きていないならば、死んでも父の家のうちに生きることはないであろう。従って、この世にあってもイエスの父の家のうちに生きることが、信仰の生なのである。

信仰において生きられるいのちは、地上にあっても天上にあっても、父の家のうちに生きているいのちである。だとすれば、地上において父の家のうちに生きるということは、地上も父の家であるように生きることである。しかし、我々罪人は、父の家を見失ってしまった。アダムとエヴァの堕罪の結果、エデンの園を追放されたと、創世記には記されている。だから、我々は父の家を追い出されたのだと思ってしまう。あるいは、父の家から離れて、地上を生きているのだと考えることにもなる。ところがそうではない。我々の罪が、父の家を見失わせる結果となったが、父の家は地上にある。なぜなら、エデンの園は地上にあったのだから。地上にあったエデンの園を追放された我々人間は、追放されたようでいて、自分から出てしまったのである。罪のゆえに、罪に促されて、罪を犯し、罪に従って、出てしまった。家出をしたようなものである。それゆえに、ヨハネの続く箇所では「みなしご」という表現が出てくるのである。親のない子がみなしごであるが、我々は親に捨てられたわけではない。自分から家出をして、家を見失って、みなしごとなっている。それゆえに、イエスは父の家を回復するために来られた。

イエスが神殿を浄めたときにも、ヨハネによる福音書では「父の家の熱意が、わたしを食い尽くす」という詩編69編10節の言葉が引用されている。イエスは父の家を回復するために来られた。そして、父の家が失われている状態を見て、神殿を浄めた。父の家が父への祈りに満たされるために、浄めた。そして、父の許へ行くことによって、我々罪人に父の家を回復する業を行われる。父の家は地上の世界すべてである。地上の世界すべてが父の家であるのに、我々は自分の家のように考えている。あるいは、自分の家を確保するために躍起になっている。自分の生きるべき場所を獲得するために、汲汲としている。そのような世界は、父の家であっても父の家ではない。本質的には父の家であるが、我々人間の現実においては父の家ではなく、人間の家である。人間たちの欲望の家である。人間たちの罪の家である。

父の家は、イエスの父なる神の愛の家であり、神の愛によって営まれる生活の場所である。神の愛によって営まれるはずの父の家が、人間たちが自分の場所を確保するために争う場所になっている。世界の中に、境界線を設定し、地上を分割し、自分の家を拡張する争いが溢れている。このような地上は、父が造り給うた世界であるにも関わらず、人間たちが父の家を我が物にしようと奪い合う世界となっている。この世界において、力のない者、弱い者が搾取され、収奪が行われている。収奪を繰り返す世界は、拡張と収縮を繰り返しながら、常に揺れ動く世界である。一端、我が物にしたかと思えば、別の者に奪われ、奪い返したかに思えても、さらに別の力が奪う。こうして、奪い合う世界が現前しているのが、我々罪人の世界である。

ところが、この世界は本来父の家であった。父が造ったものであった。人間は、父の家を見失ったがゆえに、自分で自分を守る家や町を建設することになった。こうして、自分で自分を守る世界が現出し、自分を守るために、他者を追い出す世界が出現した。これが我々の世界である。この世界のただ中に、父の家はある。いや、父の家の中で、我々罪人の世界が展開している。これは、父の家を蔑ろにして、人間が父の家を占領している状態である。我々人間が自分の世界だと思っている世界は、父の家のうちにある世界なのである。父の家は、地上も天上も含めて、見えない世界も含めて、最初からあるのだ。我々が父の家を認めさえすれば、父の家はそこにある。そして、誰も自分の住む場所を奪い合い、獲得する必要のない世界がそこにあるのだ。それゆえに、イエスは言う。「わたしの父の家のうちに、多くの留まる場所がある」と。それはすべての人間が生活する場所があるということであり、誰もその場所を奪い合う必要がないということである。どれだけ人口が増えたとしても、父の家には多くの留まる場所、生活の場所があるのだ。

この世界に生きるためには、イエスを通らなければならない。「道、真理、いのち」であるイエスを通って父の家に入る。それは、イエスが歩まれたように、ありのままの姿で、生きるということである。十字架のイエスが、神の意志に従って、丸裸で、生きているのと同じように生きることである。そのためには、我々が信仰のうちに入れられる必要がある。信仰が「父の家のうちに入る」ことであるならば、父の家のうちに入れられることが必要である。父の家のうちに入れられるには、ただ父のこどもであることを受け入れるだけで良いのだ。それが信仰に入るということである。

すべての人間が父のこどもである。しかし、父のこどもである現実を見失っている。見失ったものを回復するには、見失っている事実を受け入れるだけで良いのだ。自らの罪を認めるだけで良いのだ。そのとき、我々はすぐさま父の家にいる自分を見出すであろう。

我々の罪が、我々のこども性を失わせている。父のこどもであるにも関わらず、こどもであるように生きていない。こどもであるように生きるなら、こどもであることを回復される。回復されて、子どもとして生きる。失われたこども性を回復してくださるのは、十字架のイエスである。我々が失われていることを認識し、失われたものを回復してくださいとイエスに祈るならば、そのようになる。「わたしの名において、何かをあなたがたが願うならば、これらのことをわたしは行うであろう」とイエスはおっしゃる。イエスの名において願うことは、イエスが実現してくださる。イエスの名において祈る者は、イエスに信頼して祈るからである。自分が獲得するのではなく、イエスがおっしゃったようになると信じるからである。失われたわたしであるがゆえに、回復してくださいとイエスにおいて祈る。それが信仰である。失われたわたしを認識するのが信仰であれば、失われたと認識したとき、あなたは信仰のうちに入れられている。父の家に入れられている。そして、祈る者とされて、さらにこども性を回復していただけるのだ。

イエスは、ご自身父の子であるが、ご自身と同じ父の子としてのこども性を我々人間のうちに回復するお方である。我々が失っている父のこども性、我々が見失っている父の家は、ないのではない。あるのだ。あるがゆえに、回復されるのだ。イエスの十字架を見上げるとき、我々はすでにあるものをあると認める信仰の認識に開かれる。自らの罪を認めた者は、この認識に開かれる。そのときは、どのようにしたら来たるのかと問う必要はない。来るときに来るからである。あなたは父の家にいる。父の家を回復されるべく招かれている。感謝して入ろう、父の家のうちに。

祈ります。

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