「ありのままを守る」

2017年5月21日(復活後第5主日)

ヨハネによる福音書14章15節~21節

 

「もし、あなたがたがわたしを愛するなら、わたしの掟をあなたがたは守るであろう」とイエスは言う。「わたしを愛する」というイエスへの愛が、イエスの掟を守る土台である。イエスを愛していない者は、イエスの掟を守らない。しかし、イエスを愛していなくとも、掟だけを守るということもあり得るであろう。その場合は、イエスを愛するがゆえに掟を守るのではなく、掟を守れば、イエスを愛していることになるからと掟を守るのである。この場合は、イエスへの愛を証明するために掟を守るので、イエスを愛しているとは言えない。そして、真実に掟を守っているわけでもない。では、イエスを愛するとはどういうことであろうか。

19節でイエスは言う。「わたしは生きており、あなたがたは生きるであろう」ということが、イエスを愛することの源泉である。つまり、イエスが生きていることに基づいて、わたしたちが生きるということ、イエスの愛に基づいて、わたしたちが愛するということである。元々、我々人間は自分自身から生きることはできない。神が生きて働いていてくださるので、わたしたちは生きている。同じように、イエスが生きることに基づいて、わたしたちは生きる。この場合、神が生かしておられるいのちの法則に従って、生きるということである。イエスが生きているのは、神のいのちの法則に従って生きておられるのである。それは、神のいのちが「あるようにある」いのちだということから理解すべきことである。

「あるようにある」ということは、ありのままの真理である。隠れなき真理である。隠れなき真理において、神は生きておられる。神のうちに生かされている存在も、ありのままの真理に基づいてこそ、真実に生きていると言える。しかし、人間は隠れてしまう罪の闇に落ち込んでしまった。それゆえに、「あるようにある」ことができなくなった。神があらしめることから逃げて、反対に、自分がありたいように生きることとなってしまったのである。ここに人間の罪がある。ありたいようにあるのではなく、神が「あるようにある」如く、我々が神によってあらしめられるようにあることが、神の意志に従うことである。この真理から逃げだし、隠れて、悪を行うのが闇に支配された人間である。

罪に陥った人間は、ありのままである神のいのちを生きることができなくなった。この闇の世界に遣わされたキリストは、神のいのちの法則に従って、十字架の死に至るまで、神に従順に生き給うた。十字架の死において、神のありのままのいのちが如何に生きるのかをキリストは語っておられる。たとえ、人間から排斥され、殺されても、神のいのちはありのままに溢れ出すのだということを語っておられる。人間が自分のありたいようにあるためにキリストを殺しても、神があるようにしておられるいのちは失われることなく、必ず現れると語っておられる。キリストの十字架は、ありのままを守るために生きてくださったキリストの御業。キリストの愛である。

この十字架を通して、わたしは愛されているのだと知る人は、キリストを愛するであろう。このお方は嘘をつかないお方だと信頼するであろう。このお方に従って行けば、過つことはないと従うであろう。そのとき、我々はありのままを守る掟が自らの生の土台だと認識して、イエスを愛して生きている。

イエスの掟は、互いを愛することである。ありのままの互いを守ることである。自分が望む相手、自分の思い通りになる相手を愛するのではない。自分の思い通りにならない相手は、わたしにありのままとは何かを教えてくれる。わたしも他者も神があるようにあらしめている存在である。わたしが他者を自分に従わせようとするならば、あらしめている神を従わせようとしていることになる。むしろ我々は、神によって造られ、愛されている存在のありのままを守るために、互いを愛するのである。それは、イエスがわたしを愛して、ご自分を十字架の死に従わせた愛に従うことである。

マルティン・ルターは「キリスト者の自由について」第2節においてこう語っている。「愛とは、愛する者に仕えて、服するものである」と。イエス・キリストが仕えてくださったのは、わたしだけではなく、すべての人間である。わたしに仕えてくださっているイエスを愛する者は、イエスに仕えて服するがゆえに、イエスの愛する者に仕え、掟を守る。

しかし、我々人間は、キリストの十字架を見上げても、自然的にイエスの愛を認識することはない。二千年前に十字架に死んだキリストという人間がいたと思うだけである。人間は、キリストの十字架を見上げても、わたしを愛して、ご自身のいのち、魂を神の前に献げてくださったとは、自然的には認めないである。この認識は、キリストがおっしゃっているように、「真理の霊」の働きなのである。

真理の霊は、ありのままのいのちを守るようにさせる神の霊である。この霊が与えられていなければ、我々人間は十字架に神の愛を認識することはない。まして、わたしのための十字架を認識することはない。従って、イエスを愛することはなく、イエスの掟を守ることもない。最初に見たように、愛されることを求めて、掟を守るのが自然的人間である。見返りを求めて、掟を守るのが自然的人間である。その場合は、イエスを愛していないのだから、掟を守って何も得られないとなれば、掟は捨てられることになる。掟を守ることは形式的となり、外面的な愛で終わってしまう。

我々の魂がイエスを愛する魂であるということは、我々の魂とイエスご自身とが一つとなっているということである。そこから溢れ出る「互いを愛する」という出来事は、見返りのために守られる掟ではない。愛されているがゆえに、愛するのである。それは、愛されているというありのままの事実を守ることなのである。愛されるために守る掟であれば、愛されていないという認識から出発することになる。それではイエスが言う「みなしご」である。

親を持たないみなしごであると自分を認識しているところから出発するので、親を得るために愛することに陥る。また、親の愛を得るために、掟を守ることになる。欠乏から始まる場合、満たされることを求めて、守られる掟になるのだ。しかし、イエスは満たされているところから始まる愛を語っておられる。そのために、真理の霊が与えられるのだと、語っておられる。ありのままのわたしが神に愛され、神に受け入れられ、神によって善きものとされていくと信じるのは、真理の霊の働きである。その場合、わたしの働きによって善くなるのではない。神の意志に従って、善くなる。善きものが相応しく現れる。善きものがないのではない。ありのままのわたしには神が与え給うた善きものがある。それが罪によって、闇に覆われてしまっているのだ。ルターは、罪によって人間本性が壊敗していると言ったが、それはありのままであるわたしを生きることができなくなっていることなのである。しかし、真理の霊が与えられるとき、我々は神に造られたありのままを生きることができるようにされるのだ。キリストの十字架は、ありのままのいのちをありのままに生きた結果である。人間的には滅ぼされたと思える十字架が、実は神のいのちが真実に現れた出来事であると語っているのだ。神に生かされるありのままを拒否した人間がキリストに負わせたのが、十字架である。しかし、神が与え給うたありのままのいのちは失われず、復活のいのちとして現れた。このキリストを愛する者は、真理の霊を与えられて、ありのままが見えている。神の愛に満たされている自分自身を知る。そして、同じ愛を他者のうちに見る。それゆえに、その人は愛されるために、掟を守ることはない。むしろ、他者のありのままを守るために、掟を守る。ありのままのイエスを愛するがゆえに、掟を守る。これが今日イエスが語っておられることである。

そのように生きることができるようにと、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。あなたのうちに、神の愛の中でありのままに生きたキリストが現れてくださる。あなたがあなたであることを守り給うキリストを愛し、キリストの掟を生きて行こう。

祈ります。

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