「約束の派遣」

2017年5月28日(昇天主日)

ルカによる福音書24章44節~53節

 

「わたしは派遣している、わたしの父の約束を、あなたがたの上に。しかし、あなたがたは座していなさい、町の中で、あなたがたが着るまで、高きところからの力デュナミスを」とイエスは言う。イエスは、天に上げられる前に、「派遣している」と語っている。父の約束の派遣は、天に上げられることを待たずに実行されている。しかし、町の中で、座しているようにと勧める。約束の聖霊は、すでに派遣されているが、未だ彼らは聖霊を着ていない。それゆえに、町の中で座しているように勧められている。派遣されているものは、すでに彼らの許に来ているはずである。しかし、座しているように勧めるのは、彼らが聖霊を着るためである。座していることによって、聖霊を着ることになるということである。

約束というものは、使徒言行録1章4節において、イエスが語るように、約束を信じ、待つことが必要である。福音書では「座す」と言われ、言行録では「待つ」と言われている。これは同じ事柄である。座しているということは、立たされるために座すことである。待つとは、受けるために待つことである。立つときが来たり、受けるときが来たる。それまでは、座し、待つ。これが神の出来事に与る在り方であるとイエスは使徒たちに語ったのである。

約束は派遣されているとしても、派遣されている約束を受け、立たされるために、座すとき、待つときが必要なのである。なぜなら、彼らが獲得するのではないからである。あくまで、立たされ、与えられる。それゆえに、イエスは「わたしの父の約束」と語るのである。父の約束であり、父が約束したということ自体が重要なことなのである。約束自体が、約束として生きるためには、座す、待つという在り方しかないのである。

待ち続けること、座し続けることは、いつまでと言えるものではない。神の時は、来たるとき来たる。だから、人間が管理することはできない。人間が来たらせることはできない。人間が獲得することはできない。あくまで、神の意志において来たり、神の意志において実現する。約束そのものである聖霊は、そのようにしてこそ受けることができるのである。だからこそ、イエスは「約束」と言うのである。

約束が実現するために、待つ、座すとは言え、期限が切られていないことを待ち続けることは人間的には困難である。しかし、待つことができるとすれば、その人は約束を受け取っていると言える。なぜなら、約束そのものに目を注ぎ、心を向け、他の人間的な方法に頼らないからである。約束に向かって生きているとき、その人は約束のうちに生きている。ときが分からないとしても、待ち続けることが可能であるのは、約束のうちに生きているからである。これだけ待ったのに、まだ来ないと思うとき、約束に留まっていない。自分の待ち続けたときにこだわり、自分の待つ力によって来たるものと思い込んでいる。そのとき、約束は約束ではなく、自分の力で引きよせるものとなる。それは約束ではない。獲得するものである。約束は、あくまで約束されたお方のもの。約束されたお方が時と場所を定めるもの。約束されたお方にすべてを依存しているもの。それが約束である。我々の待った時間、我々の待つ努力、我々の待つ力に依存しているならば、約束は約束ではない。我々が来たらせるものになってしまうのである。

約束が約束であるために、イエスは「座すこと」、「待つこと」を命じるのである。イエスが命じることに従うとき、我々はすでに約束の派遣のうちに生きている。約束を派遣されて生きている。約束があるということ自体が、我々には祝福なのである。それゆえに、使徒たちは、大きな喜びのうちに、エルサレムに帰り、神を褒め称えていたのである。彼らは約束を約束として、ありのままに受け取り、約束のうちに生きていたからである。だからこそ、イエスは言ったのだ、「わたしは派遣している」と。そして、使徒たちを祝福しながら、天に上げられたのである。

約束が実現するまで、約束のうちに留まり、生きるとき、我々は約束をすでに受けている者として生きる。祝福されている者として生きる。どうしたら、受けることができるかと考え、自分が受けるための方法を求めるとき、我々は受けていない。そして、留まることはできない。祝福されていない者として生きるとき、受けることも、留まることも人間自らの力によって行おうとしてしまうのである。約束の派遣は、派遣しているとおっしゃるイエスの言に信頼するとき、すでに来ている。これを受け取ろう、獲得しようとするとき、来ていても、我々をすり抜けている。来ているのであれば、受け取ろうとすることはない。ただ包まれることに身を委ねるだけである。すでにあることに従うだけである。これが神に従うことである。神の言に従うことである。神の意志に従うことである。そのとき、我々は神にすべてを委ねている。そのとき、我々は神を信じている。そして、神を愛している。

愛する者に仕えることが愛の本質であると、ルターが語った通り、我々が神を愛しているならば、神に仕える。神に信頼し、すべてを委ねる。そのとき、神の力に包まれるのである。神の力に包まれるとき、我々の力はいっさい放棄されている。そうでなければ、高きところからの力に包まれることはない。なぜなら、我々の力に頼っているかぎり、我々は神の力に包まれることを拒否しているからである。神の力を拒否し、神の力に信頼する者を蔑み、自分の力を拡充しようとする。こうして、神は愛されず、神は拒否され、神は蔑まれる。

キリストは、人間たちからこの拒否を受けた。蔑みを受けた。憎しみを受けた。そして、ただ、受けた。この受けるだけのキリストは、神への従順に生きることに徹底したお方である。十字架の死に至るまで徹底したお方である。ただ受けるということは、被るものを引き受けることである。被る苦難を引き受けることが受難なのである。それは、受け取ろうとすることではなく、ただ受けることなのである。その姿は、弱さとしか見えないであろう。権力に翻弄されているとしか見えないであろう。力なき者がただうなだれているとしか見えないであろう。しかし、神の約束に信頼し、神の言に従う人は、神を愛し、神に与えられたものを受けている。それゆえに、神の力がキリストを包み、神の力がキリストを起こし給うた。天に上げられるときも、キリストは神の意志に従って上げられた。こうして、まったくの受動において、神の力に満たされていたのである。キリストは天に上げられるまで、神に従順である生を使徒たちに示し、命じたのだ。

キリストのこのお姿を見て、使徒たちは神に信頼することの力強さを見た。神に信頼するとき、人は自分の力を越えて、生きることを見た。神に信頼することも、人間の力ではないことも見た。それゆえに、使徒たちは力なく、罪深い自分自身に落胆することなく、神の力によって立つ者とされていくのである。聖霊降臨のとき、彼らを神の力が包み、彼らは聖霊を着ることになる。彼らの力ではなく、神の力によって、伝える者とされる。神の力によって、イエスの証人として生きる。そのために、イエスは天に上げられるまで、神に対して従順であられた。使徒たちから、イエスが見えなくなることは、使徒たちがただ神に従う者とされるためである。彼らが見ようとしても見ることができなくなるためである。彼らが自らの力を捨てるためである。そのとき、詩編46編の言葉が実現する。「力を捨てよ。知れ、わたしは神」と神が語り給う言が実現する。我々が力を捨てるとき、いや捨てるようにされるとき、聖霊を着ることになる。神が着せ給う聖霊を着ることになる。すでに派遣されている約束は、神の時に従い、実現すると信頼して生きる者とされる。

すでに派遣されている約束がこれを実現する。神の約束が実現する。我々がキリストの証人であることができるのは、聖なる霊が、わたしを神の約束に信頼し、神の意志に従うようにしてくださるからである。力を捨て、神ご自身の力によって生きて行こう。あなたは神のもの、キリストの証人である。

祈ります。

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