「生きている水」

2017年6月4日(聖霊降臨日)

ヨハネによる福音書7章37節~39節

 

「なぜなら、未だ霊はなかったから、イエスが栄化されていなかったので」と言われている。イエスの栄化である十字架に従って、霊はあるようになると言われている。十字架を経なければ、霊は生きて働かないということである。そうであれば、霊の働きは十字架との関係においてのみあるということになる。十字架においてのみ霊の働きが生じるのである。その働きが如何にあるかをイエスは十字架の前に語っていた。それが今日の日課である。

「わたしへと信じる者は、ちょうど聖書が言うように、彼の腹から川が流れるであろう、生ける水として」とイエスは言う。イエスのうちへと信じるということは、関根正雄が言うように、イエスのうちへと入り、身を固くすることである。イエスのうちにすべてを委ねていることである。そのような存在の腹から川が流れるとイエスは言う。川とは動いている水である。それゆえに生きている水とも言われている。生きているものは動いている。淀んでいるものは生きていない。川として流れる水は生きている水である。生きている水の表象によって、イエスは聖霊の働きを語っている。しかも、聖霊の働きを受けるには、イエスが与える水を飲むこと、つまりイエスのうちへと信じることによると語っている。信仰とは、イエスが与える水を飲むことであり、その水が飲んだ人の腹に入り、川が流れるようになることである。ここには、飲んだ人の行為は語られていない。飲まれた水の行為が語られている。つまり、飲まれた水、イエスが与える水の働きが語られているのである。

信仰とはイエスが与える水を飲むことである。渇いていることを知らないならば、イエスの許に来ることはなく、イエスが与える水を飲むこともない。イエスの水はどこにおいて与えられるのか。礼拝においてである。礼拝において聞くキリストの説教は我々人間に渇きを教え、求めるべきお方を教える。キリストの説教を通して、我々はイエスの許に渇きを癒す水があることを知るのである。この水を飲むことが信仰である。

人間が井戸を掘って、水を獲得して飲むという積極的能動の行為が信仰なのではなく、与え給うお方から受け、飲むという受動的能動の行為が信仰である。そのためには、自らの罪深さに絶望している必要がある。自らは水を獲得する術も、渇きを癒す術も持たないという事実に目覚める必要がある。そのとき、イエスの言葉に耳を傾けるであろう。「もし、誰かが渇いているなら、わたしのところに来なさい。そして、飲みなさい」と語るイエスの言を、わたしに語りかけるわたしの主の言として聞くであろう。そのとき、我々はイエスのうちへと身を委ねている。この始まりにおいて、すべてが内包されている。水を与え、川が流れるようにしてくださるお方のすべてに身を委ねているからである。

しかし、この渇きは魂の渇きであり、喉の渇きではない。喉の渇きは、身体的なものであり、魂の渇きは全存在的なものである。存在自体の渇きを知ることがなければ、イエスの許に来ることはない。イエスの言に耳を傾けることはない。身体的な渇きは、人間関係によって癒されることもある。しかし、何度となく崩れる人間関係によって、渇きは増していく。ところが、イエスが与える水を飲む者は、存在自体の渇きを癒していただくので、人間関係に左右されることなく、神との関係に堅く立って揺らぐことがない。これが信仰の状態である。これが生きている水として川が流れることである。この川は常に流れているので、生きている水であり、その人の腹から流れる川だと言われている。腹から川が流れるその人は常に潤っている。常に、生きている水が流れている。それゆえに、渇くことがない。

この腹から流れる川という表象は、信仰者の生き方を語っている。信仰者は、他者に水を与えて、渇くことがないのである。他者に与えることによって、渇くことなき川として流れ続ける。他者に与える水が自らの腹から流れている人は、与えることにおいてイエスの生を生きている。それゆえに、その人はキリスト者と呼ばれ、一人のキリストとして生きるのである。マルティン・ルターが「キリスト者の自由について」において、次のように語っている通りである。「このようにして、神の宝は一人の人から他の人へと流れて行き、共有されねばならない。また、各自は、その隣人を、あたかも自分自身であるかのように受け入れねばならない。この宝は、わたしたちの姿がご自身の姿であるかのようにそのいのちの中へとわたしたちを受け入れてくださったキリストから、わたしたちの中へと流れ込んで来、わたしたちから、これを必要とする人々の中へと流れ込んでいく」と。これが真実にキリスト者である人の状態であるとルターは語っている。

このようなキリスト者として生きるためには、キリストに受け入れていただいていることを知らなければならない。そのために、週毎の礼拝が備えられている。礼拝に与ることにおいて、我々はキリストに受け入れられていることを身をもって知るのである。それは、わたしの全存在が渇いていることを知る者に啓示される神の意志である。自ら自覚してはいない存在の渇きを魂が感じ取り、キリストの許へと向かわしめる。この渇きを知らせるのも聖霊の働きである。聖霊によって、我々は全存在の渇きを知り、潤してくださるお方に向かわしめられる。こうして、聖霊はわたしを捉え、キリストの許へと向かわせ、キリストの水を飲ませてくださる。飲んだ者が、他者へと流れて行き、隣人と共に生きるようにしてくださる。これが今日、イエスが語っておられる聖霊の働きである。

聖霊がこのように働くために、イエスは栄光を受ける十字架を負われた。キリストの十字架という栄光から流れ出る水を飲む者の腹から川が流れるのである。それは他者を潤さずにはおかない川である。生きている水である。他者の魂の渇きを潤す水が、このわたしの腹から流れるとイエスはおっしゃる。その働きは、如何に小さな働きであろうとも、キリストの働きである。「善い行いについて」においてルターが言うように、「藁くず一本拾う」ことも善となる信仰の働きである。そのような働きは、日常生活の至極当たり前の行為においても行われるとルターは言うのだ。信仰者のすべての行為が善である。それは信仰が主体として働くからである。人間が主体として働く場合は、如何に善い行いと思っても、悪しき行いである。すべてを自分へと引きよせる働きだからである。

川は流れる。自らに引き戻す川はない。川はあくまで流れる。流れる先から見返りを求めることはない。流れていくだけである。この流れる純粋さを生きているのが川である。それゆえに、腹から流れる川は流れるだけなのだ。それによって、わたしが救いの保証を受けるようなものではない。それによって、わたしが義人であることを証明してもらえるようなものでもない。信仰を起こされ、キリストのうちへと信じているがゆえに、義人である。義人であるがゆえに、川が流れる。それだけのことである。我々が、自分の成果を求め、自分の信仰者としての確認を求める間は、我々の腹から川は流れていない。むしろ、我々の腹の中に、淀みが生じている。我々は水を溜め込み、腹は大いに膨れあがる。流れることなく、いつまでも膨れあがるだけ。動けなくなり、滅びてしまうまで。流れている川は川辺を豊かにする。豊かさを誇ることなく、さらに与える川となる。与えても、少なくなることはない。

与えることで自分が少なくなると思い、溜め込む者は信仰者ではない。与えれば与えるほど、豊かな流れが活き活きと流れていく。聖霊の働きはそのようであるとイエスは言う。我々がこの川を流れさせる生きている水をいただくならば、我々一人ひとりの腹から川が流れるであろう。イエスのうちへと入り来たり、川として流れる存在は、渇くことなく、全存在が潤っている。この聖霊が常に働くようにと、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。今日もキリストの体と血に与り、聖霊の川が流れ出るように生きて行こう。聖霊はあなたのうちで働いてくださる生きている水なのだから。

祈ります。

Comments are closed.