「魂と体の主」

2017年6月18日(聖霊降臨後第2主日)

マタイによる福音書6章24節~34節

 

「誰も可能ではない、二人の主に奴隷として仕えることは」とイエスは言う。それゆえに「思い悩むな」と語る。つまり、一人の主の支配に服することを生きているならば、その主がすべてを支配し、満たしてくださることを信頼するはずだということである。二人の主に支配されるということは、心が二つに分裂して、定まらないということであり、それゆえに思い悩みが生じると言えるであろう。一人の主の支配に服しているならば、主がわたしのすべてを支配していると信頼しているはずである。信頼していなければ、支配に服しているとは言えない。形だけの服従であって、魂も体も完全に服従しているとは言えない。体だけ服従するということは実はないのだ。魂と体とは一つのわたしを形作っているのだから、一方が服従し、他方が服従しないということはあり得ない。わたしのすべてで服従するのであり、わたしの魂と体を支配しておられる方に全面的に信頼してこそ、わたしはわたしを保つことができるのである。

もし、わたしが自分で自分を保つと考えるならば、わたしの主はわたしである。ところが、わたしがわたしを支配する場合、わたしを越えた支配は不可能である。わたしの能力の範囲、わたしの視野の範囲、わたしの価値観の範囲に限定され、わたし自身のすべてをわたしが管理し、支配することはできない。わたし自身が、わたしを生かすこともできないし、わたしを成長させることもできない。わたしが管理できるものは何もない。食べるものにしても、わたしが造り出すわけではない。着るものもわたしが造るわけではない。たとえ、わたしに必要なものすべてをわたしが造り出すことができるとしても、わたし自身の体と魂を造り出すことはできない。まして、保つこともできない。わたしの体を動かすこともわたしの力を越えている。それゆえに、わたしはわたしが生かしているわけではない。

だとすれば、わたしを生かしているお方がわたしを支配しておられるがゆえに、わたしの魂と体は造られ、保たれている。そのお方は、この世の魂と体とをすべて造っておられる。この世界の魂も体も、自足しているわけではない。神によって創造され、存在し、保持されている。我々個々の人間も、我々が置かれている世界も、それ自体として自足して生きているわけではないのだ。この世界の魂と体とを造り給うたお方がおられて、保たれているのだ。

それゆえに、イエスは言う、「第一に、神の国と彼の義を探し求めなさい」と。第一は神の支配と神の義である。第一のものが第一に探し求められさえすれば、その他のものは加えて与えられると言う。我々人間は、第一のものではない。第一のものを造り出すこともできない。我々が造り出せるとすれば、それは我々の下にある事柄のみ。我々の上にあるもの、我々を越えているものは、我々の製作によるのではない。我々を越えたお方、我々の上におられるお方の創造による。それゆえに、第一のものを探し求めることが、我々人間が第一になすべきことなのである。そのとき、その他すべてのものは加えて与えられるのである。いや、与えられていることを知るのである。与えられていないのではない。与えられているのに、見えていないだけなのだ。

我々は第一を探し求めることなく、第二、第三と下位のものばかりを探し求める。それは、わたしが第一だと思っているからである。わたしを第一として、神を見失っているからである。それゆえに、わたしがわたしのすべてを配慮し、整えなければならないと考える。こうして、我々は神を離れ、神の支配を脱出し、自分の支配、あるいは人間の支配の中で生きようとする。そこには悪の支配、罪の支配があるだけなのに。神の支配のみが第一であり、他のところに探すならば、神の支配を他の支配に取り替えることになるのである。そして、わたしの力ですべてを揃えなければならないと考える。あるいは、それらを揃えてくれる人間を支配者と仰ぐ。移り変わる人間の支配者に従うかぎり、常に不安に陥り、振り回されてしまう。あるときはこの人に、別のときはあの人に、さらに今日はその人にと、探し回って疲れ果てる。何も得ることなく、不安は募るばかり。人間の支配を求めるかぎり、究極的にはわたしがわたしを支配し、自足することを求めることになる。それゆえに、自足することができない。我々のすべてを造り給うたお方に信頼するならば、自足する必要はなく、すべて満たされている。その世界が、神の支配、神の国、そして神の義なのである。

神の義とは、神が義であること。義ディカイオスュネーとは、正しいことである。正しいとは、公正、公平であり、情に流されることなく、欲に溺れることなく、利得によって公正を曲げることがないということである。すなわち、何事によっても揺らぐことなく、正しさに立ち続けることである。神が義であるということは、神が情に流されないお方であり、偏り見ることなく、義に立ち続けるお方であるということである。そのようなお方の義の支配の中にあるわたしであることを信頼するならば、神が行われることはすべて正しいことであり、わたしの益となると信じるであろう。そのとき、わたしはすべてを信頼して、受け入れるのである。これが神を信頼し、神を愛することであり、その源泉は神の義、神の愛なのである。

パウロが第一コリント13章7節で言うように、愛は「すべてのことを覆う。すべてのことを信頼する。すべてのことを希望する。すべてのことを引き受け、その下に留まる」のである。このような愛は、人間の愛ではない。神の愛であり、神の愛を注がれている者は、このように生きるとパウロは言うのだ。それが神に義とされた者の生き方である。

神の義を認め、我々一人ひとりが自らの力で生きることなどできないことを認めるとき、我々は義とされる。我々が神の被造物であり、神によって生かされ、保たれていることは真実だからである。この真実を認め、神の支配に従う者は、義である。神の前に義であるとは、わたしがわたし自身によって義であることはできないと認めることなのである。わたしがわたし自身によって、神を信じることなどできないと認めるとき、我々は神の力によって信じる者に変えられることを求めている。それゆえに、第一のものを第一としている。神の支配、神の国、神の義を第一としている。すべてを覆い、すべてを信じ、すべてを希望し、すべての下に留まりつづける。こうして、すべては神の世界であることを生きるのである。わたしの魂と体の主の許でわたしは生きる。

何も心配する必要はない。すべては神の義に従って、あるようにある。あるべきものがある。あるべきではないものはあることができない。神の可能のみがあるのだ、最終的に。終わりの日には神の意志に従ってある世界が来たる。完全に来たる。今は、このわたしも完全に神の支配に入っていないとしても、神の支配を探し求めているかぎり、必ず至る。イエスがそう約束しておられるのだから。我々の労苦は、神の支配を探し求める労苦である。他のものを探し求める労苦ではない。神の義を探し求める労苦である。神の愛を信頼して、神の義、神の支配を探し求める労苦に生きる者は、神の愛に包まれて生きて行く。如何なることがあろうとも、人間の罪が妨げようとも、悪の誘いがあろうとも、必ず至る、神の支配、神の国に。

我々一人ひとりが、一日一日を神の国を探し求める労苦に生きるとき、あなたの心に留まっているのは、キリストの言葉である。キリストの言葉があなたを生かし、歩ませている。キリストの言葉が、我々のうちに常に留まるようにと、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。キリストの言が、我々を導き、永遠のいのち、神の国、神の義へと至らしめる。我々がいただくキリストの体と血が、我々を守り、導き、神の国へと至らしめる力である。

この世界の魂と体の主である神が、キリストを我々に与えてくださったことを感謝しよう。キリストがわたしのうちに生きて、神のご意志に信頼して生きる道を歩ませてくださる。あなたのために十字架を引き受け給うたキリストは、あなたの魂と体の主として生きてくださる。

祈ります。

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