「言に造られる者」

2017年6月25日(聖霊降臨後第3主日)

マタイによる福音書7章15節~29節

 

「わたしのこれらの言を聞く者はすべて誰でも、そして、それを行う者はすべて誰でも、賢い人の似姿になるであろう」とイエスは言う。聞く者は行う者である。聞かなければ行わない。行わない者は聞いていない。聞いているならば必然的に行う。そして、賢い人の似姿にされるのであるとイエスは言う。

賢い人とは、岩の上に家を建てる人のことである。砂の上に家を建てる人は愚かな人である。それゆえに、イエスの言を聞く者が賢い人の似姿に造られるということは、労苦することを厭わない人の似姿にされるということである。自分で似姿になるのではない。イエスの言が似姿に造るのである。イエスの言を聞く人は、労苦するように造られ、労苦することを通して、賢い人の似姿にされるのである。

我々は、岩の上に建てるよりも、簡単に建てることができる砂の上に建てたいものである。労苦しなくとも、見た目は同じならば、その方が楽である。我々はあえて労苦しなくとも見た目が同じならそれで良いではないかと考える。労苦は見えないから、見えないところで頑張っても誰も誉めてはくれない。そんな愚かな努力はしない方が良い。何の益もない。時間を短縮できるならば、その分他のことに使えるだろうと考える。しかし、時間ができても、楽をするためにしか使わないものである。休んでいる間、労苦している人が働いていても、そんな見えない労苦を一生懸命行う馬鹿正直な人間と笑う。ところが、嵐が襲ってきたとき、その労苦は嵐に打ち勝つのである。

労苦することを避けて、砂の上に建てる愚かさを、スマートだと考える。誰も認めてくれないようなことをこつこつやるなどということは馬鹿馬鹿しい。だから、簡単に手に入って、早く誉められる方が良い。労苦は馬鹿にされ、見えないことをこつこつ行う人は、愚か者のように言われる。現代だけではなく、イエスの時代にも同じだった。人間は楽を求めるものなのだ。労苦することを厭うのが人間なのである。あえて、労苦することはないと考える。誰にも誉められないことに時間をかけるなど、どうしてできようかと考える。これが罪人の思考である。

見えないところで一生懸命に努力することは、誰かに誉められるから行うのではない。誰からも誉められないとしてもなすべきことはなすべきである。人間は労苦するように造られている。アダムとエヴァの堕罪の後、神がアダムに言う。「お前は、顔の汗のうちに、パンを食べるであろう」と。パンを食べるために汗を流して、土を耕す。土を耕す労苦を通して、自分自身を耕すようにと神は土を耕すことを命じたのである。なぜなら、土は、アダムが造られた土アダマーだからである。神は、罪を犯して追放される人間に労苦することを与えた。もともと、人間は土を耕す者として造られた。しかし、人間はその労苦から解放されることを願い、神のようになると蛇に唆され、罪を犯した。罪を犯した人間が「顔の汗の内に、パンを得る」ようにと神は願った。しかし、堕罪後の人間も、労苦することからの解放を願ってきた。文明によって、労苦から解かれた人間が良くなったかと言えば、むしろ悪くなっている。暇になると人間は悪いことばかり考えるのである。楽になれば良いことを考えるわけではない。労苦するなどということは賢くないと考える。スマートに、楽に生きて、名声を手に入れる方が賢いと考える。こうして、労苦は蔑まれ、地道な活動は馬鹿にされ、こつこつ行うことは捨てられる。こうして、賢くなったと思い上がる人間が造られ、神の言、神の意志を捨て去るのである。

イエスの時代も、同じ人間がいた。いや、人間はイエスの時代から何も変わっていない。人間は労苦することを厭うのである。自分を耕すことを避ける。わたしは何者かなどと考えても腹の足しにもならないではないかと考える。そのような人間がイエスの言を聞くだけで、行わないのは当たり前である。イエスの言がわたしを生かすとは考えない。イエスの言がわたしを造るとは知らず、イエスの言を考え、取り組み、生きようとはしない。そのような人間はイエスの言を聞いていない。行わないのだから聞いていない。知識としては知っているだろうが、わたしを造る言に包まれていない。イエスの言によって造られる経験をしていない。それは、労苦する見えない努力を要するからである。イエスの言を聞いて、イエスの言と格闘しない。それゆえに、イエスの言に造られることはない。我々は、みことばと格闘することによって、みことばに造られるのである。

マルティン・ルターもキリストの言と格闘した。キリストの言に苦しんだ。苦しむ中で、みことばがルターを形成した。九十五箇条の提題の最初に言うように、「キリスト者の全生涯が悔い改めであることを望まれた」イエスの意志に従った。お金で贖宥状を買い、苦しい罪の贖いを免除されることで良いのかと批判した。もちろん、悪い木がどれだけ努力しても悪い木である。どれだけ表面上は良いことを行おうとも悪い木である。自分自身がみことばによって耕されていないので、悪い木のままである。ルターは、自分自身が悪い木であることを徹底的に知らされた人間である。みことばと格闘して、自分が良い木になったわけではない。良い木になり得ない自分自身を知ったのである。そうして、良い木であるキリストに祈り求めざるを得ないことを知った。労苦せず、祈り求めても、真実の祈りにはなり得ない。なぜなら、自らの罪に苦しんでいないからである。一人ひとりが生涯悔い改めに生き、自らの罪に苦しみ、真実にキリストに祈り求める者として造られることをルターは願ったのである。

みことばと格闘することで、みことばに従い得ない惨めな自分自身を知るに至る。絶望の底に落ちるであろう。自らの力に頼り得ない自分を知るであろう。自らが悪しか働かないことを知るであろう。しかし、底の底において、キリストに出会う。底の底において、ようやくキリストに出会う。自分に頼り得ないところに導くのは、キリストの言。キリストの言と格闘する中で導かれる。キリストという岩に至るまで、キリストの言と格闘する者がその岩の上に建てられる家である。キリストの言に造られる者である。岩に至るまで、格闘するように造られている者である。この格闘は、一人ひとりが行うこと。岩に至るまでの格闘は一人ひとりがなすべきこと。誰かがここに岩があると言っても、その人にとっての岩であり、わたしにとっての岩ではない。我々は、わたしにとっての岩に至る格闘を生きるのだ。

みことばに捕らえられ、みことばに促され、みことばに造られる格闘。その人は岩の上に建てられた家。キリストという岩がその人の土台となるまでみことばと格闘する者は苦しむ者である。みことばに造られつつある者は、苦しんでいる。自分自身の罪と戦っている。自分自身の悪と格闘している。みことばに従い得ない自分の内に住む罪と格闘している。このような人が、イエスの言を聞いて、それを行う者である。イエスの言がその人を行う者として造りつつある人。イエスの言がその人を賢い人の似姿に造りつつある人。イエスが苦しんだ十字架の苦しみに倣いつつ、イエスという賢い人の似姿に造られていく。イエスの十字架の苦しみは、我々一人ひとりをキリストの似姿に造るための苦しみ。我々が十字架のキリストを自分のために苦しみ給うお方として受け取るとき、その人はキリストの言に造られつつある。キリストの似姿に造られつつある。キリストの言と格闘し、キリストという岩の上に建てられて、似姿へと造られていくことを神は望まれた。そのために、キリストを送り給うたのだ。十字架の死を通して生きるキリストの似姿に造るために、キリストを遣わし給うた。

悪い木が良い木であるキリストに結ばれるために、キリストは語り給う。我らがキリストの言に捕らわれるために、語り給う。我らがキリストの言によって造られるために、語り給う。聞く耳のある者は聞けと語り給う。語り続けるキリストこそ、我らのために苦しみ給う岩。この岩に至る労苦を続けさせるみことばと格闘しつつ、造られて行こう、真実なる人間として。あなたが聞かされているみことばが、あなたを造る、キリストの似姿として。

祈ります。

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