「必要を満たす神」

2017年7月2日(聖霊降臨後第4主日)

マタイによる福音書9章9節~13節

 

「健やかな人たちは、医者の必要を持っていない、むしろ悪しく持っている人たちが」とイエスは言う。医者の必要を持っているのは、悪しく持っている人たち、つまり世界を悪しく持っている人たちなのだと言うのである。健やかであるということは、世界が健やかに認識され、世界の中で健やかに生きているということである。世界が悪しき世界であるならば、その人の体も魂も悪しく世界を持っているので、生きることが難しい。世界が健やかであるのは、神によって保たれているからであるが、世界が悪しくあるのはその人の精神、魂が世界を正しく持ち得ないようになっているということである。神が創造した世界は健やかである。その中で、悪しくあるのは、世界から阻害されているということである。イエスの癒しは、一人ひとりを世界の中に正しく位置づけることであった。彼らが神に造られたように生きるために、彼らの体と魂を整えることがイエスの癒しであった。健やかに持ち得ない世界を、健やかに持つことができるようにする必要がある。医者の必要を持つということは、身体的に整えることであるが、イエスの癒しは身体だけではなく魂も含めて整えることであった。それゆえに、イエスは徴税人や罪人とも食事を共にされた。彼らが、神の世界に受け入れられていることを生きるために、彼らと食事を共にしたのである。それは単なる食事ではなかった。食卓につく一人ひとりの魂が、そして身体が、神のものとして再認識されるために必要だったのだ。イエスの食卓は、そのような癒しの場であった。

「必要」クレイアは、「不足」、「欠乏」を意味する。不足しているので、補わなければならない。欠乏しているので、満たされなければならない。それが「必要」ということである。「必要」は満たされることによって、本来性を回復するということである。食事を共にすることが如何なる必要の満たしなのであろうか。それは、見捨てられている状態の人が顧みられていることを回復する必要である。排除されている人が受け入れられていることを回復する必要である。そこにある必要は顧みと受け入れである。それによって、彼らの何が回復されるのであろうか。自己自身への否定的認識、不必要であるとの認識が、必要なる存在としての認識に回復されることである。この場合の必要なる存在とは「役に立つ」存在ということではなく、存在として必要だということである。

存在としての必要は、その人の職業や身体的状態によって認められるものではない。ただ、そこにいるという存在としての必要である。その人はそこにいなければならない。神がその人を必要なる存在としてこの世に置かれたのだから、その人は生きる必要があるのだ。神が生きるべく造り給うた一人の人間として生きる必要がある。それが存在の必要性である。その存在の必要性が、病や罪を負っていることで、欠乏し、不足しているのである。その必要を満たすのは、神の顧みであり、神の憐れみである。この憐れみは、エレオスというギリシア語であるが、神の胎に受け入れ癒す愛を意味する言葉である。すなわち、神は必要性を剥奪されている存在を、ご自身の胎の中に受け入れ、癒して、送り出すのである、必要なる存在として。この受け入れにおいて、一人ひとりの必要性の認識が回復されるのだが、イエスは食事を共にすることで、神の胎への受け入れを行ったのである。

食卓を共にするということは、その存在を受け入れているということである。受け入れられていない存在は食事を共にすることから排除されている。そのような一人ひとりが、徴税人であり、罪人であり、病者であった。病者だけではなく、徴税人や罪人も、世界を悪しく持っている存在である。世界が健やかなる世界であるとは思えないような状態に置かれている。彼らは、自らが世界に受け入れられていないということにおいて、悪しく持つ状態にされている。イエスはそのような一人ひとりが健やかなる世界を持つことができるようにと、受け入れて、食卓を共にしたのである。神に受け入れられていることを知った一人ひとりが、この世で受け入れられないことがあろうとも、神の顧みを土台として雄々しく生きて行くことが可能となる。この本来性の回復こそが、イエスが「憐れみ」とおっしゃる意味である。イエスの食卓は、神の胎なのである。イエスの十字架はその究極的受け入れである。人間の罪のすべてを引き受け、すべての人間を受け入れて、イエスは十字架に架けられたからである。

すべての人間が満たされるべき必要を持っている。一人ひとりの存在が必要性を回復される必要がある。役に立つか否か、能力があるか否か、財産、地位があるか否かで量られる必要性ではなく、存在そのものの必要性。これは、神が造り給うた存在としての必要性であって、人間世界における必要性とは別次元のものである。それゆえに、ファリサイ派の人たちには理解不能だった。彼らも、自らの律法遵守によって、必要なる存在として自己認識していたからである。このような必要性はレベルの低い必要性であり、狭い世界の必要性である。彼らは、自らが本質的に神を必要としてないということを認識していないのである。この世の必要性が自分たちの律法遵守によって確保されれば、神など必要ないのである。神に受け入れられる必要の無い存在として生きていたということである。神の役に立つ存在だと思い込み、役に立たない者として病者や罪人を排除していた人たちである。しかし、神の役に立つ存在は、神の憐れみの胎に一人ひとりを受け入れて行く存在である。神が必要として存在を与え給うた一人ひとりに必要性の自己認識を回復してあげることが、神の役に立つことである。神に用いられることである。イエスはそのような働きをなさった。

ファリサイ派の人たちから批判されようと、神の憐れみの胎を開いて、受け入れた。神の憐れみの食卓に招いた。神の憐れみの世界を伝えた。このイエスの働きは、最終的に十字架に行き着く。十字架が最終的な神の憐れみの胎として、すべての人間を受け入れるのである。しかし、必要を剥奪された存在、欠乏を感じる存在だけが、神の胎を求める。自らの存在の受け入れを求めるのは、神の胎の必要を持っている人間なのである。この世界がわたしを拒否しても、必要ではないと排除しても、神がわたしを受け入れ、必要な存在と呼んでくださる声を聞くならば、わたしは生きて行くことができる。わたしの存在の根源的必要性は神にあるのだから。

わたしが世界に存在しているということは、神が必要として存在させておられることである。そのお方が、わたしの必要を満たし給う。わたしを用い給う。わたしを生かし給う。如何なる人間も神が造り給うたということにおいて、必要なる存在なのである。人間がその存在を排除することは許されていない。神が許し給わない。神の憐れみの胎はすべての欠乏している存在に開かれている。その人が回復され、必要なる人間としての自己認識に満たされるために、神の胎は開かれている。この胎に入れられることが、信仰を起こされることである。

信仰とは、神のうちに自らを委ね、神のうちに身を堅くすることとである。神のうちにわたしの存在の根源があるとすべてを投げ入れることである。投げ入れる魂を神は受け入れてくださる。神の創造であるがゆえに、あなたは神に必要とされているのだ。あなたの存在を求め給うた神が、あなたを造り給うたのだから。このような信仰を起こされた存在が、再び自らを見失うことがないようにと、神はキリストにおいて聖餐を設定してくださった。聖餐は、神の食卓。キリストが罪人を招き給うた食卓。罪人の存在を受け入れ給うた食卓が、聖餐の中に息づいている。十字架という神の胎にすべての存在を受け入れ給うたキリストの体と血における食卓は、我々を神に必要とされている存在として回復してくださる。神の世界に生きるべく造られた存在として回復してくださる。信仰において、キリストと一つとされた存在が自らを見失うことなく、神のものとして神の世界を生きて行くために、ご自身の体と血を与え給うキリスト。あなたは、このお方の憐れみに受け入れられている。喜んで入り行こう、キリストのうちへ。

祈ります。

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