「宣言する権威」

2017年7月9日(聖霊降臨後第5主日)

マタイによる福音書9章35節~10章15節

 

イエスは「彼の十二弟子たちを呼び寄せ、彼らに汚れた霊の権威を与えた。その結果、それらを追い出し、すべての病、すべての病弱を癒すために。」と言われている。さらに、イエスは弟子たちに言う。「行って、あなたがたはこう言って宣教せよ。天の国が近づいたと」。宣教した結果、何が起こるかを、イエスはこうおっしゃる。「弱っている者たちをあなたがたは癒せ。死者たちを、あなたがたは起こせ。ライの人たちを、あなたがたは清くせよ。悪霊を、あなたがたは追い出せ。無償で、あなたがたは受けた。無償で、あなたがたは与えよ。」と。

イエスが弟子たちに宣教した言に従って、彼らも宣教するために派遣された。「宣教する」という言葉は「宣言する」という意味である。触れ回り、宣言する言葉は、権威に基づいて宣言される。弟子たちに権威があるのではない。派遣したイエスに権威がある。イエスを派遣した神に権威がある。神の権威の下に、イエスは弟子たちを派遣する。派遣された弟子たちは、イエスを通して聞いた神の権威ある言に従って、宣言する。彼らが宣言するわけではない。神が宣言している言を宣言する。弟子たちが願うことではなく、神が願うことが宣言される。神の意志が宣言されることによって、弟子たちの言を神の言として受け入れる者が、癒される。悪霊を追い出される。弱さの中で、神の力によって立つ。そのためには、弟子たちが忠実に宣言することが必要なのである。

弟子たちの宣言は、神の言の権威に基づいているのだから、弟子たちの信仰が権威を受け入れているかぎりにおいて、神の言として働く。弟子たちが、自分の力と勘違いするとき、神の言として働くことはない。宣言する権威は神の権威である。弟子たちは神の権威に従ってこそ、正しく宣教することができる。この宣教こそ、癒しを起こし、悪霊の追い出しを起こす。癒しも追い出しも、宣言によって生じるからである。

癒されるべき人は、癒されるべく神の権威を信じ、神の言に従う信仰のうちに入れられ、宣言の言を受け入れる。宣言された言が弟子たちの言ではなく、神の言であることを受け入れる。受け入れは信仰において起こるのである。信仰において、神の権威の言が宣言され、信仰において、神の権威に従うがゆえに、癒され、追い出される。宣言する権威に従う存在同士が、神の言の権威の中で、癒しの業に与るのである。癒す者に力があるわけではない。癒される者も力があるわけではない。互いに、信仰において、神の前にひれ伏すがゆえに、神の宣言の言が宣言する者と聞く者を包み、近づき給う神の国に入れられるのである。

イエスが宣教した言「神の国が近づいた」という言は、我々人間が神の国に入ろうと近づくのではないという意味である。神の国の方が近づき、一人ひとりを受け入れ、そのうちに生かすということである。当時も現代も、我々人間は自分から近づくこと、自分が獲得することに躍起になっているものである。そうして、人間から神に近づく道を歩もうとする。しかし、イエスが宣教したのは、神の国の方が人間たちに近づく道である。従って、我々は近づき給う神の国に身を委ねるだけなのである。近づき給う神の国に自らを開くだけなのである。近づきつつある神の国は、我々を受け入れようと近づいてくださるのだから、我々は受け入れられることを受け入れるだけなのである。

受け入れられることを受け入れるという二重の受動が信仰なのである。二重の受動において、我々は神の受け入れを受ける。神の国に入ろうとしても入ることはできないが、神の国が近づき給うことを受け入れることにおいて、すでに入っている。受け入れられることを受け入れるとき、すでに入っているのである。自分から近づくと思うとき、どこまでも遠ざかっていくのが人間なのである。それゆえに、イエスは宣言する権威を弟子たちに与えたのだ。宣言される言は、ただ受けるしかない言である。人間が受けるか否かを決めるような言ではない。人間に決められるような言は、権威のない言である。受けるしかない言、聞くしかない言、信頼するしかない言。それが宣言される言である。そこには、受けるか拒否するかの二者択一があるのみである。

後で良く考えて、間違っていないと判明したら、受け入れようというのでは、いつまでも受け入れることはできない。宣言は、神の権威に基づいているのだから、我々が神の権威を判断するなどおこがましいことである。神がおっしゃるのだから、そうなのだとただ受け入れる。神がご自身から近づき、受け入れるとおっしゃるのだから、受け入れられることを受け入れる。それだけなのである。この受け入れが可能であるのは、可能なる人だけであり、不可能な人もいる。それはそれで仕方のない現実である。受け入れ不可能な人は、如何にしても、受け入れ可能にはなり得ない。それは、自分で受け入れようとすることではないからである。

受け入れる者は必然的に受け入れる。受け入れない者は必然的に受け入れない。それだけである。それゆえに、イエスは「その家が相応しければ、あなたがたの平和は、その上に来たれ。」と言うのである。「その家が相応しからざれば、あなたがたの平和は、あなたがたの方に向きを変えよ」とも言う。イエスが言う相応しさはただ「受け入れる」ということだけなのである。それゆえに、その家に心を残すことなく、足の塵を払えとイエスは命ずる。受け入れるように語るのではないし、語り方で受け入れが可能になるのでもない。ただ相応しさがあるかないかだけである。そうであれば、宣言することだけが弟子たちの働きである。説得することが弟子たちの働きなのではない。聞く耳のある者が聞くというだけであって、聞く耳を開かせるのが仕事ではないのだ。聞く耳を開かせるのは、宣言された神の言のみの働きである。それゆえに、弟子たちは落胆することはない。ただ忠実に宣言するだけが彼らのなすべきことなのである。

宣言する権威に従って、宣言する弟子たち。彼らの宣言を通して、癒し給うのは神。彼らが癒すのではない。神が癒す業は、相応しい者に受け入れられる。相応しくない者には受け入れられない。それだけであるがゆえに、弟子たちは傲慢になってはならない。彼らには何の力もないことを常に覚え、弁えていなければならない。ただ神の力によって、彼らは働くのである。

我々人間が、他者に宣言する言は神が語らせ給う言である。羊飼いを持たない羊を憐れみ、はらわたを痛め給うキリストが、語り給う言である。彼らが打ちひしがれ、弱り果てている姿に痛みをもって宣言される言を語る弟子たちは、イエスと同じように一人ひとりを見なければならない。いや、必然的にイエスと同じように見る。見なければならないのではなく、イエスの心が彼らの心と一つになっている信仰において、弟子たちは群衆を見るからである。この視覚は、弟子たちが聞いたイエスの言と一つとされるときに開かれる視覚である。イエスの憐れみの言葉と一つとされるとき、我々の視覚はイエスの視覚と一つとされる。イエスが見るように見、イエスが祈るように祈り、イエスが宣言するように宣言する。信仰において、受け入れる神の権威に従って、イエスの在り方が我々の在り方として現れる。宣言する権威は、宣言を聞く我々を包み、送り出す。送り出された我々は、受け取った宣言の言によってのみ、働くことができる。それが、神の言の力による宣教の愚かなのである。

我々が宣教することは愚かである。愚かでなければ、宣教できない。神の前に、自らの愚かを認めた者だけが宣教する。宣教する言はわたしの賢さからは与えられないと認める者が宣教する。神の言の前に、賢しらな知恵を捨て、神の言の力に信頼する者だけが宣言する者である。マルティン・ルターが言うように、「語られたことをなしとげる力のことば」を宣言する者がキリスト者なのである。キリストの宣言を聞いて受け入れたあなたは宣言するのだ。宣言する権威ある言によって、あなたは、相応しい者とされているのだから。

祈ります。

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