「内在する告白」

2017年7月16日(聖霊降臨後第6主日)

マタイによる福音書10章16節~33節

 

「人間たちの前で、わたしのうちで、同じ一つの言葉を言うであろう者は誰でも皆、わたしもまた同じ一つの言葉を言うであろう、その人のうちで、天におけるわたしの父の前で」とイエスは言う。ここで語られている言は信仰告白を意味する言葉で、ホモロゲオー「同じ一つの言葉を言う」が原意である。それゆえに「仲間」と訳しているのであろうが、信仰告白は仲間の告白ではない。キリスト者は、「イエスの仲間」などという表層的存在ではない。まして、仲間は排除する論理の中でしか機能しない概念である。仲間を作ることは、仲間に入れない人間と入れる人間を分けるということである。すべての人間を仲間だなどというなら、その人は言葉の使い方を知らないのである。イエスは自分の仲間だと言うようにと勧めているのではない。仲間に入れというのでもない。

「わたしのうちで同じ一つの言葉を言う」という言い方は、イエスのうちに入っている信仰における告白なのである。そのとき、その人のうちでイエスも同じ一つの言葉を言うとおっしゃっているのだ。つまり、その人の告白はその人の言葉ではなく、イエスの言葉であり、イエスがその人のうちで告白している言なのである。しかも、地上に生きる人間たちの前で同じ一つの言葉を言う人のうちで、イエスもまた天の父の前で同じ一つの言葉を告白すると言うのだ。地上における告白は、天上におけるイエスが父の前で告白する言葉の反映だということである。信仰告白は、イエスの天上の告白に従って生じる。それゆえに、イエスを受け入れていることを告白することは、イエスに受け入れられていることを起源としてしか起こり得ない。告白する主体は、イエスに起こされた信仰なのである。

我々が信仰を告白するとは、イエスのうちで告白することであって、イエスに対して告白するのではない。わたしがイエスに向かっているのではなく、イエスに包まれているがゆえに告白できることなのである。イエスに向かって告白すると考える場合、イエスに認めてもらうために告白するように思えてしまう。しかし、真実に信仰を告白する者は、イエスの中に包まれ、イエスがその人のうちで告白する。では、その人の真実なる告白ではなく、イエスに操られて、告白させられているのであろうか。いや、イエスを信頼するがゆえに、イエスにすべてを委ねた人は、イエスに包まれて生きているのである。その状態で告白される言葉は、同じ一つの言葉である。イエスご自身が語る言葉、それが同じ一つの言葉、信仰告白なのである。

この告白は何故になされるのであろうか。誰かにわたしはキリスト者であると告白しなければ、わたしはキリスト者ではないのであろうか。いや、キリスト者であるならば、必然的に告白するということである。なぜなら、イエスがおっしゃるように、「覆いを取り除かれない覆われているものは一つもない。また、認識されない隠されているものもない」ということだからである。覆われているものは必然的に覆いを取り除かれる。隠されているものは必然的に認識される。あるようにあるものを隠すことはできないし、覆っておくこともできない。キリスト者は必然的にこのように生きるのである。覆い隠して生きるキリスト者などいないのだ。人間の前で、同じ一つの言葉を語るのがキリスト者である。相手によって違うことを言う人はキリスト者にはいない。あるものをあると認めるのがキリスト者なのだから、あるものを覆うのではなく、あると告白するのである。自分が糾弾されないために、あるものをないと言うならば、同じ一つの言葉を語ってはいない。信仰告白とは、礼拝における告白だけではなく、あるものあると告白する真実なる世界認識なのである。

あるものをないと告白することはできないのだ。それはあるのだから。イエスをわたしの救い主と告白するということは、そういうことなのである。イエスが救い主であると皆が言うから同じように言うのではない。わたしがイエスを救い主であると受け入れているがゆえに、受け入れているように告白するというだけなのである。それはしなければならないことではなく、イエスが救い主であるから告白せざるを得ないのである。告白すれば救われるのではない。告白しないではいられないから告白するのである。

キリストは自分たちだけのものだとキリスト者仲間を作るのがキリスト者なのではない。わたし自身がキリストのうちにあると信じるがゆえに、すべての人がキリストのうちにあると認めるのである。仲間を作る必要などない。仲間を作るとき、我々はキリスト者の中に排他的集団を作ることになる。本来は、ルーテル教会など形成する必要はないのだ。ローマ・カトリック教会もルーテル教会も同じキリストの教会であるということではない。そのような仲間内の教会を作るならば、それはキリスト者の教会ではないということである。一人ひとりが、キリストを救い主と告白するだけで良いのである。キリストのうちで生きているだけで良いのである。ルーテル教会に入らなければ救われないのではない。ローマ・カトリック教会に入ったら救われないのでもない。ただ、キリストがわたしの救い主であると告白する者はキリストのうちにあって告白するというだけである。ただし、現在あるルーテル教会を破壊することもない。ルーテル教会はルーテル教会としてキリストのうちにあって告白する同じ一つの言葉を言うのである。人は、組織を捨てなければならないのでもない。組織を使わなければならないこともあるのだ、地上においては。

それでも、生きている基本的姿勢は、あるものをあると告白する生き方である。それがイエスが生きたいのちだからである。マルティン・ルターもあるものをないとは言えなかった。聖書が語ること、キリストが語ることを否定できなかった。ありのままに聞き、ありのままに語る。これがイエスの生であり、ルターも従ったキリスト者の生である。この在り方をこそ、ルターは人々に伝えたかったのであり、ルーテル教会を作るつもりなどなかったのだ。しかし、破門されたがゆえに、一人告白するうちに同じ言葉を言う人たちが共に礼拝するようになって行った。それがルーテル教会である。従って、ルーテル教会は、一人ひとりが同じ一つの言葉を告白する生き方をするのである。ルーテル教会は仲間作りをした結果生じたのではなく、一人ひとりが同じ一つの言葉を聖霊によって告白することによってルーテル教会とされたのである。ルターが語った言葉をそのままに語るのではない。ルターが生きた在り方に従って、わたしが生きることが肝心なのである。それは、イエスが語られた言の在り方に従うことである。イエスの言のありのままの姿に従うことである。

イエスは、ご自分がベルゼブルと言われてもなお、語らざるを得なかった。イエスに従うものは、もっとひどく言われるであろう。しかし、イエスに従うのである。いや、イエスに従わざるを得ないのがキリスト者である。なぜなら、あるものはあるという事実は失われないからである。神があるようにされたものはあるのだ。その神のうちで生きる者は、あるようにされたわたしとあるようにされた他者とを共にある者として生きるのである。従って、わたしはイエスの仲間であると言う必要はない。イエスの仲間になる必要もない。イエスのうちで生かされているならば、イエスがわたしのうちで同じ一つの言葉を語るのだから。これが内在する告白である。

キリストは内在する告白として、あなたのうちに生きてくださる。ご自身の体と血をあなたに与えて、あなたのうちで生きてくださる。あなたは、キリストの体と血に与って、キリストのうちに生きる。キリストが設定してくださった聖餐によって、あなたはキリストのものであるあなたをありのままに生きることができる。あなたを受け入れてくださったキリストがあなたのうちに受け入れられ、あなたのうちで生きてくださる。わたしがキリストのうちにあり、キリストがわたしのうちにある生を生きるようにと、与えられる聖餐を感謝していただこう。

祈ります。

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