「キリストのゆえに」

2017年7月23日(聖霊降臨後第7主日)

マタイによる福音書10章34節~42節

 

「慣習に基づいて想像するな」とイエスは言う。「思ってはならない」と訳されている言葉は、ギリシア語でノミゾーという言葉で、「思う」、「想像する」という意味ではあるが、原意は「慣例である」という意味である。誰もが、慣例的にこう思うということを表す言葉である。しかし、イエスはそのように慣例的に誰もが考えるように考えてはならないと言うのである。イエスが来た目的は「平和を投げ込むため」ではなく、「剣を投げ込むため」だからだと言う。イエスがそのように言うのには理由がある。イエスは、一人ひとりが自分の十字架を取って生きるために来たからである。自分の十字架は自分で取るのであって、他の誰かが代わってくれるのではないし、誰かの代わりに負うのでもない。それぞれが自分自身のために負うのである。そのために、家族関係も破壊されなければならない。なぜなら、家族に頼るのではなく、イエスにのみ頼ることが、わたしがわたしを生きることを支えるからである。わたしの人生を家族の誰かに肩代わりしてもらうことはできない。それぞれが自分の人生を生きるのである。家族を愛することは、イエスとの関係に基づいて、改めて生じる関係でなければならないからである。どうして、そうなのか。

我々は、家族を愛することから始めるのではなく、イエスを愛することから始めて、家族を愛することができるのである。先ず、神との関係、イエスとの関係が正しい関係にされるためには、家族に頼る在り方を切り離される必要があるのだ。それゆえに、「剣を投げ込むために来た」とイエスは言うのである。それは、「切り離し」のための剣である。切り離されて、独りになって、イエスに従うのである。そのような意味では、我々が真実に自分を生きるためには、家族関係を破壊しなければならない。それゆえにイエスは言う、「自分の魂を見出す者は、それを破壊するであろう。そして、自分の魂をわたしのゆえに破壊する者は、それを見出すであろう」と。

「自分の魂を見出す」のは破壊の後に来たる。先ず、「自分の魂を見出す」のではない。この「魂」という言葉プシュケーは、自分自身を表している。自分自身を見出すというのは、慣例的なものを破壊した後見出すのである。我々が慣例的に自分の魂だと思っているものは、自分が頼っているものである。家族が大事であるというとき、家族はわたしの魂となっている。家族がいなければ、わたしはわたしを生きることができないと思い込んでいる。しかし、家族がいなくとも、わたしはわたしである。もちろん、家族を通して、わたしは生まれてきた。生まれてきた自然的な関係を、先ず我々は見出すのである。そして、縛られる。これがなければ、わたしはわたしではないと縛られる。その場合、わたしはわたし自身としてわたしであることはできない。他の誰かに頼って、わたしであることを保とうとしている。いや、家族あってのわたしであると考えている。ところが、家族が亡くなったとしても、わたしはわたしを生きて行くのである。たとえ独りになったとしてもわたしを生きて行くのである。この一己のわたしを見出すには、先ず自分が頼って、自分の魂と思い込んでいるものを破壊する必要があるのだ。何も頼るものがなくなったとき、真実に自分自身を見出すであろう。

我々は、慣例的に想像するとき、何も考えない。考えなくても、慣例的にそうなのだと思っているだけで良いからである。家族を失ったとき、自分が頼っているものを失ったとき、我々は自分を失ったように思うであろう。それは朽ちるものに頼っていたからである。我々が真実に頼るべきは、朽ちないもの、変わらないものであるべきなのだ。しかし、我々は自分と同じように朽ちるものを頼る。そして、失ったとき、自分の魂が破壊されたと思うのである。破壊されるようなものは魂ではない。失うようなものは自分自身ではない。我々は如何なる状態にあろうとも、わたし自身を失わないのである。それが分かるのは、失われないものを見出したときである。自分が頼っていた朽ちるべきものが破壊されたとき、我々は落胆する。しかし、良く考えて見るならば、わたしは落胆してもわたしであることを止めてはいないのだ。わたしが頼っていたものが失われても、わたしはわたしを止めてはいないのだ。このように良く考えることに至るのは、まずキリストのゆえに、自分の頼っているものを破壊することを通してであるとイエスは言う。どうしてなのだろうか。

イエスは「わたしのゆえに」と言う。この「わたし」というイエスはキリストとしてのわたしを語っている。十字架のキリストがわたしを見出すために必要なのである。なぜなら、キリストの「わたし」は十字架の上で失われたかに思えたが、失われることなく、神によって復活させられたからである。このキリストを知ることに基づいて、自分が頼っていたものを破壊するとき、我々は見出すであろう、自分の魂である自分自身を。そうイエスは言うのである。このキリストは、わたしの魂を守るために、十字架を負われた。わたしの魂を見出させるために、十字架を負われた。わたしが自分自身を生きるために、十字架を負われた。キリストの十字架こそが、イエスが投げ込む剣である。この剣は、我々が真実に自分自身を見出すために、朽ちるべきものを破壊する剣である。

朽ちるべきものは頼ることができないものであり、朽ちないものこそ頼るべきものである。朽ちないものに頼っているわたし自身は、朽ちないものと共に朽ちないものとして生きるであろう。朽ちるべきものに頼っているわたし自身は、朽ちるべきものと共に朽ちるであろう。それゆえに、「自分の魂を見出す者は、それを破壊する」のであり、「自分の魂をキリストのゆえに破壊する者は、それを見出す」のである。そのとき、一人ひとりは真実に家族を見出す。神の被造物としての家族、神の家族を見出すであろう。

キリストのゆえに自分の魂を破壊するということは、良く考えるということである。慣例的に想像することではない。慣例的に想像する場合は、何も考えない者となってしまう。破壊するとき、自分自身とは何かを考える。破壊するとき、自分自身が頼っていたものを切り離すのだから、切り離された状態で良く考えるのである、わたしはいったい何者なのかと。そのような根源的な思考へと導くのがキリストの十字架なのである。キリストゆえに、自分の魂を破壊する者は、自分の魂とはいったい何かを良く考えるであろう。そして、見出すのである、キリストのうちに。

キリストが十字架を負ってくださったのは、わたしがわたしを生きるためであったと、見出すのである。キリストのうちに守られているわたしの魂を見出すのである。キリストがわたしを生かそうとして、負ってくださった十字架の中にわたしを見出すのである。そのとき、我々は自分自身を自分自身として見出す。何もなくなったとしても失われることのないわたし自身を見出す。そのようなわたし自身とは、飾っている外面ではない。持っている財産でもない。就いている地位でもない。わたしの家族でもない。神が生かし給うわたしである。わたしは神が生かし、神が守り、神が導き給うわたしである。キリストのゆえに見出されたわたしは、何も持たなくともわたしである。純粋にわたしである。

このわたしを見出したわたしは、神の家族を見出す。そして、神の家族である小さな者の一人に水を与えるであろう。キリストを受け入れるように、小さな者の一人を受け入れるであろう。キリストの十字架は、この小さな一人のためにもあるのだと見出しているからである。そのとき、あなたはキリストに相応しい者として生きることになる。キリストのゆえに、自分が頼っているものを破壊したあなたは、キリストに相応しい者として生きるようになる。如何なるときも、如何なる状態であろうとも、あなたはキリストのゆえにあなた自身を生きることができる。キリストのゆえに見出されたあなた自身は、如何なるときも失われない。キリストのゆえに回復されたあなたの魂は、何者にも縛られることなく、自由に生きるであろう、隣人と共に。

祈ります。

Comments are closed.