「イエスのくびき」

2017年7月30日(聖霊降臨後第8主日)

マタイによる福音書11章25節~30節

 

「わたしのところに来なさい、疲れ果てて、重荷を負わされ続けている者たちは。わたしもまたあなたがたを一時的に仕事を中断させて休ませてあげよう」とイエスは言う。我々はこのイエスの言を聞くとき、一時的な休みだとは思わない。イエスのところに行けばずっと休めると思い込む。それは我々の願望だから。イエスが言うアナパウオーというギリシア語は「一時的に仕事を中断して休む」という意味の言葉である。つまり、休憩なのである。永遠に休むわけではない。

さらに、イエスが呼びかけているのは「疲れ果てて、重荷を負わされ続けている者たち」である。我々は疲れ果てるまで働いているのだろうか。重荷を負わされ続けているのだろうか。イエスが呼びかけている人たちは、当時の社会から排除されていた人たちである。罪人と言われた人たちは、どんなに頑張っても罪人のレッテルを剥がされることなく、重荷を負わされ続けていた。どれだけ努力してもさらに努力を求められた。その上、いつまでも受け入れられることのない状態に置かれていた。病人たちも同じである。努力しても病気は治らない。病気は神の罰と考えられて、治らないのだから神は罰を与え続けていると思われていた。神が罰しているものを人間が取り除いてはならないと言われることもあった。病気の人たちは永遠に終わることのない罰に苦しんでいたのである。それは、身体的苦しみと精神的苦しみであった。そのような人たちにイエスは呼びかけたのだ。「わたしのところに来なさい」と。

イエスは「わたしもまたあなたがたを一時的に仕事を中断させて休ませよう」と言う。「わたしもまた」と言う。イエスも休ませていただいたということである。誰からか。神からである。イエスは、神から休息を与えられたことに基づいて「わたしもまた、休ませよう」と言うのである。しかし、この休みは、元の重荷に追い返すための休みではない。新たにイエスのくびきを負うための休みである。休んだ後、「取れ、わたしのくびきをあなたがたの上に。そして、あなたがたは学べ、わたしから」とイエスは言う。その結果、「あなたがたは見出すであろう、休息を、あなたがたの魂に」と最後に語っている。あなたがたが見出すのは、魂の休息である。

魂の休息とは如何なるものなのか。如何にして得られるのか。イエスのくびきを取ることによってである。イエスのくびきは「役に立つ」とも言われている。それは「使い易い」という意味であるが、また休息を見出す「役に立つ」とも考えられる。つまり、イエスのくびきを負うことによって、我々は魂の休息を見出すのである。それは身体的休息ではない。しかし、魂が休息を見出すとき、身体的に疲れていたとしても力を回復することができるのである。この魂の休息とは如何なるものなのだろうか。

「使い易い」ということは、それぞれの首にぴったりと合っているということであり、負うことが楽なのである。さらに、イエスの荷は軽いとも言われている。くびきがぴったり合っていれば、荷は軽くなる。合わないくびきを負わされているかぎり、重量的に軽くとも重くなってしまう。合うくびきであれば、如何に重くとも軽く負うことができる。イエスのくびきは、一人ひとりにぴったりのくびきなのである。つまり、その人自身のためにイエスが特別にあてがってくださったくびきだからである。それゆえに、魂の休息は一人ひとりに合うようにイエスが備えてくださったくびきを負うことで見出すことができるのである。それはイエスの十字架に基づいたくびきなのである。くびきを負わなくとも良いのではない。役に立つくびきを負わせようとイエスは言うのである。

人間はくびきを負って生きている存在である。原罪によって自らに負っているくびきがあり、他者にも負わせているくびきがある。神の世界を自分自身が判断し、善悪にわけ、自分の善悪の判断を絶対化することによって、重荷を負わせ続ける人間。当時の指導層たちは、罪人や病人たちに重荷を負わせ続けていたのである。

神の世界は神の意志に従ってある世界である。イエスは最初に言っていた。「全面的に同じ一つの言葉を語り、あなたを誉め称えます。」と。イエスは神と同じ一つの言葉を語るお方である。全面的に神と一つ心に生きるお方である。その神ご自身が啓示されたと言う。「あなたは啓示したから、幼子たちに」と。幼子たちは、知者たちではない。理解力のある者たちでもない。知者たちは知ろうとする。理解力ある者たちは理解しようとする。幼子たちは、知るよりも前に、理解するよりも前に、ありのままに受け入れる。それが啓示を受け入れる在り方である。神の事柄は理解するものではない。ありのままに受け入れ、生きるものである。それゆえに、啓示することを子が望む者以外には知ることはないとも言われているのである。子が啓示することを望む者とは、ありのままに受け入れる者である。ありのままに受け入れている者は子が啓示しようと望んだ者なのである。

我々人間は、理解しようとして理解してしまったと思うとき、理解した事柄を捨てる。分かってしまったと、捨てる。しかし、啓示を受け入れる者は、理解するよりも常に受け入れるように生きる。受け入れた事柄によって理解は開かれて行く。それゆえに、受け入れた神の事柄がその人を包み、導き、善きものを満たしてくださるのだ。この世の現実においては、上手く立ち回る者が善いものを独り占めするかに思える。下手な者、知識もなく、理解力もない者は、何も得ることなく、貧しくなっていくと思われている。ところが、神の事柄を受け入れて生きる者は、この世の知恵、この世の理解力を越えた神の知恵に与る。この世の在り方を越えている知恵こそ、キリストの十字架である。「十字架の言は神の力である」と使徒パウロが語る通り、十字架の言を受け取っている者は神の力、神の知恵に満たされて生きていく。如何なるときも魂に休息を見出す。

イエスのくびきは、キリストの十字架である。十字架によって負わされるイエスのくびきは、死をも越えて行く力となる。魂に休息を見出した者は、身体的に疲れていても、鷲のように翼を張って昇る。羽ばたいてではない。翼を張って昇るのは、風に、空気に支えられて昇ることである。イエスのくびきは鷲の翼を支える風。上昇気流。そのとき、我々は力を捨てていなければならないのだ。イエスのくびきを負う者は、力を捨てる者。負わされるものを拒むことなく、力を捨てて引き受ける。そのとき、イエスのくびきはわたしの力となり、わたしを支え、わたしを動かしていく。神の許へと昇らせる力となる。わたしは、魂の休息を見出す。「自分が、自分が」と我意を膨らませる生き方ではなく、神がわたしに力を与え給う、生かし給うという生き方を知る。幼子のように、神のいのちをありのままに生きる者とされる。

イエスも十字架の上で、力を捨てた。神の意志に委ねた。神の力に信頼した。イエスのくびきが与え給う魂の休息は、この信頼である。信頼すべきお方を信頼しているとき、我々の魂は休息している。十字架のイエスは、十字架の上で神との間に平和を生きている。それゆえに、神の平和シャロームのうちに復活させられたのである。十字架がわたしに与えられるくびきであるならば、十字架のイエスが生きたように、わたしも生きる。イエスがわたしと共に生きてくださる。

魂の休息は、イエスのくびきを取るとき見出される。イエスの十字架に従って、自分の十字架を取るとき見出される。自分自身が負うべき十字架を引き受けるとき、イエスの受難と同じく神の意志に従う生を生きることになる。受難は負うべきものを負うとき、魂を安らぎに導く神の出来事なのである。あなたが負うべく与えられるものをありのままの神の出来事として受け入れるようにと、キリストは聖餐を与え給う。甘美な賜物としてご自身を与え給う。あなたのうちでキリストが生きる。キリストのうちであなたが生きる。聖餐の恵みをいただき、イエスのくびきを取って、イエスに従おう。あなたの神はあなたの魂を信頼で満たしてくださる。

祈ります。

Comments are closed.