「一なる平和」

2017年8月6日(平和主日)

ヨハネによる福音書15章9節~12節

 

「なぜなら、彼(キリスト)がわたしたちの平和であるからです。両者を一として造った方。そして、仕切の真ん中の壁を解体した方。敵意を、彼の肉において」とエフェソの信徒への手紙の著者は言う。キリストの肉における敵意の解体、十字架における敵意の解体を語る。この十字架こそ、神の愛であり、キリストの愛である。それゆえに、ヨハネによる福音書15章9節でイエスは言う。「わたしの愛のうちに留まれ」と。その愛は、「ちょうど父がわたしを愛したと同じように、わたしもまたあなたがたを愛した」愛である。父の愛に基づいて、父の愛をもって弟子たちを愛したイエス。父とイエスとの一致は愛における一致である。イエスは愛において父と一つになっている。この一なる愛は十字架において現れている愛であり、エフェソの信徒への手紙の著者が言うように、キリストの肉における敵意の解体の原動力である。キリストは愛において、ご自分の肉に敵意を引き受けることで、敵意自体を解体した。敵意の現れである「仕切の壁」を解体した。

仕切の壁は、仕切る側が建てる。建てた者たちが自分たちを敵から隔てるためである。隔てられた側が敵意を持っているから仕切の壁を建てると建てる側は考える。しかし、敵意は単独で敵意として生じるわけではない。敵意は両者の関係において生じるものである。両者が敵意を持っている状態になるのだが、どちらかが敵意を示したからだと我々は考える。ところが、一方が悪いと考えるのは、自分は良いと考える側の論理である。自分が悪いと考えないがゆえに、敵意は起こると言える。両者が自分は良いと考えるからこそ、相手が悪いという敵意が生じる。両者が自分が悪いのだと考える場合、互いに謝罪し、敵意は生じないであろう。だとすれば、敵意は人間存在が根源的に持っているものである。人間が自分を悪であると考えないがゆえに、敵意は人間に根源的に宿っている。

この根源的敵意を解体したキリストは、ご自分の肉において敵意を解体したと言われているのだから、キリストは敵意を引き受けることにおいて解体したのである。敵意は引き受けるとき、解体される。一方が敵意を持っていても、他方が愛を持って敵意を引き受けるならば、引き受けた者の肉において解体が生じる。ところが、人間は自分が悪いとは考えないがゆえに、この引き受けを実行できない。人間に実行できない引き受けをキリストは実行したのである、十字架において。

それゆえに、神の愛、キリストの愛である十字架は、すべての人間の根源的敵意を愛のうちに包む神の働きである。我々人間が持ち得ない神の愛は、我々を包むことにおいて、造り替える。それゆえに、イエスは「わたしの愛のうちに留まれ」と言うのである。人間にできることは、キリストの愛のうちに留まることだけである。我々が敵意を取り除こうとするとき、我々は直接的に敵を取り除くことを考えてしまう。相手だけが敵意を持っていると考えるからである。そのような取り除きにおいては、敵意は解体されない。敵意に従って、敵の取り除きが行われ、敵意が増幅する。敵を取り除く敵意が敵の敵意を呼び覚まし、敵に敵意を起こさせてしまう。これが我々人間の世界である。それゆえに、我々は平和のための戦争という矛盾を生きるしかなくなるのである。

我々が戦争を正当化するとき、敵意はなくならない。戦争は、敵の脅威を取り除くための必要悪だと言うとき、自己正当化している。悪は悪である。神の掟においては明白なことである。我々人間は神の掟に純粋に従うのではなく、自分の掟解釈において自己正当化して、神の掟を解体してしまうのである。仕切の壁を建てることを糾弾する神の掟を解体して、壁を建てる。こうして、我々は神の掟に従わなくて良い言い訳を作り出し、仕切の壁を建設し続ける。

相手が攻めてきたならば、どうするのかと疑心暗鬼に陥り、壁は高く高く建てられる。高い壁によって、相手が入り込めないようにする。こうして、壁の内側で平和を享受していると思い込む。ところが、壁の内側にも敵意がある。壁の内側にある敵意を外に放り出すことで、平和を保つと考える。壁は高く、壁の内側は狭く、窮屈な世界が現出する。これが我々人間の平和である。

ところがエフェソの信徒への手紙の著者は言う。「キリストがわたしたちの平和である」と。キリストこそが真実に平和なのである。十字架における平和。十字架における愛。十字架における壁の解体、敵意の解体を実行したお方キリストこそが平和である。キリストはご自分の肉において、敵意を解体した。十字架において解体した。敵意を引き受けることにおいて解体した。これが聖書が語る平和である。敵意が解体されなければ、我々人間に平和はない。壁が解体されなければ、我々人間に平和はない。この解体は、人間にはできなかった。それゆえに、神はキリストを通して、解体を実行された。キリストの肉を解体することにおいて、実行された。

キリストの肉が解体される十字架は、神が人間との関係を平和に基づいて再構築する御業である。人間をご自分のものとする御業である。すべての人間を受け入れる御業である。すべての人間の敵意を神ご自身が引き受ける御業である。この御業において、神はキリストを愛し、人間を愛し給うた。ご自身の御子を十字架に架ける御業において、人間を愛する愛を貫いてくださった。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一13章4節から7節で言う通り、「4 愛は、怒りを遠くする 。善意を示す 、愛は。妬まない。自分を偉そうに見せることをしない。膨らまない。5 現れにならないことをしない。自分のものを探し求めない。いらだたない。悪を数え入れない。6 不義について喜ばない。しかし、真理によって共に喜ぶ。7 すべてのことを覆う。すべてのことを信じる。すべてのことを希望する。すべてのことを耐え忍ぶ」のである。キリストの愛、神の愛は、我々人間の罪と不義を耐え忍び、覆い、真理が現れるようにする御業である。愛するということは、愛する者を造ることである。自らが愛することにおいて、愛された者が、愛する者として造られるように願う愛。それが神の愛である。たとえ、人間が神に敵意を抱いていたとしても、神は愛し給う。愛によって、敵意を解体し給う。神は、我々が敵意を増幅させても、我々を愛することを止め給わない。途絶えることなき神の愛の御業があるかぎり、我々は神との間に平和を生きることがいつでも可能なのだ。神が手を広げておられるかぎり、我々は神の懐に飛び込むことができるのだ、いつであろうとも。

神との間に平和を生きる者として、新たに造られた存在は、神と一となっている。キリストと一となっている。それゆえに、キリストの愛の掟を生きることが可能となる。敵意を解体したキリストの愛の中で生きることが可能となる。我々キリスト者は、キリストと神とによって、敵意を解体していただいた者。敵意の解体を受け取った者。受け取った敵意の解体を隣人と共に生きるべく召されている者。敵意の解体を生きるとき、我々は解体を広げる者とされる。そのとき、神は我々を平和の器として用いてくださる。

キリストが神との愛における一を生きるように、我々も神との愛における一を生きるとき、一なる平和のうちに生きるであろう。平和は、神がもたらし給うもの。一人ひとりが神との間の平和を受け取り生きるとき、愛における一が生じる。一なる平和が生じる。互いに愛し合う平和が生じる。そのとき、キリストの喜びが、我々のうちに広がるであろう。我々の喜びは、キリストの喜びに基づいて、満たされる。キリストが喜んでご自身を我々に与え給うたキリストの喜びが、我々のうちに広がる。キリストの体と血を通して広がる。神との平和、人間同士の平和は、キリストの体と血に与ることを通して、保たれ、広げられる。キリストがご自身の肉の死を通して実現してくださった平和をいただき、平和を広げる働きをなして行こう。キリストはあなたに平和を与えるために喜んで差し出してくださる、ご自身の体と血とを。

祈ります。

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