「隠されているもの」

2017年8月13日(聖霊降臨後第10主日)

マタイによる福音書13章24節~35節

 

「たとえにおいて、わたしの口を開くであろう。吐き出すであろう、隠されてしまっているものを、神が基礎を据えたことから」と詩編78編2節の引用聖句は語っている。ヘブライ語聖書では、「隠されてしまっているもの」とは、「謎」である。また「告げる」と訳されている言葉エレウゴマイは「吐き出す」である。ヘブライ語でも同じ意味がある。つまり、謎や隠されてしまっているものをそのまま吐き出すと言われているのである。それゆえに、たとえは謎のままであり、隠されてしまっているままであると言える。しかし、隠されてしまっているものは、神が基礎を据えるということの中に隠されてしまっているのであり、この世の基礎のうちにあるということである。隠されてしまっていることは、基礎を据えた神の意志であり、隠されてしまっているがある意志である。その意志はこの世の基礎の中にあり、この世を支え、この世を保持すると言える。それゆえに、隠されてしまっているとは言えどもあるのだ。このあることに従って、この世は天の国の在り方を生きており、気をつけてみるならば分かるということである。イエスのたとえは、たとえと言いながらも、この世の自然の世界そのままを叙述するだけである。自然の世界の中にある天の国の似姿を述べるだけなのである。それが「たとえにおいて、口を開き、吐き出す」と言われている所以である。

では、たとえはたとえであり、謎のまま、隠されたままに語られていることになる。隠されたままに語られることが何故に必要なのであろうか。隠さず、明らかにする方が良いのではないかと我々は考える。しかし、明らかにすることでは何も変わり得ない。聞いた者は、そうなのかと思うだけであり、すぐに忘れてしまうであろう。むしろ、謎のままであることこそ、隠されてしまっているままであることこそが、我々に考えることを促すのである。ところが、考えても分からない。それは、自然の在り方をそのままに述べているだけだからである。

この後で、毒麦のたとえの説明が語られているが、説明とは言えない。畑が世界であり、良い種は御国の子らであるというように、当てはめているだけである。その意味が語られているのではない。それはある記号を別の記号に移し替えたというだけである。御国の子らは最後には救われるということが語られているということである。イエスはこのような説明をしているだけである。従って、それが謎解きであるわけではない。隠されてしまっているものを明らかにしたということでもない。依然として、隠されてしまったままなのである。

たとえは倫理的意味を汲み取るように語られると我々は考えるものである。それは、イソップ物語のようなたとえ話にならされているからである。アリとキリギリスの話のように、真面目に働いた人は必ず報われるというようなたとえ話と考えがちである。そこから得られるのは、真面目に働きましょうという勧めである。しかし、イエスのたとえは謎のままであり、真面目に働くことを勧める結びはない。頑張りましょうという勧めもない。正しい者は必ず救われるということであれば、正しく生きましょうという倫理的教えとして聞くであろう。しかし、良い麦も毒麦も「共に成長するように、手放せ」と種を蒔いた人は言うのである。つまり、そのままに放置せよと言うのである。からし種のたとえでは、天の国はからし種に似ていると言われ、その成長が語られている。パン種のたとえでは、その膨らませる力が語られている。「だから何なのだ」と言いたくなる。何もせずとも成長するし、膨らむのだと言うことなのだろうか。

天の国は「似ている」と言われている。「似ている」とはどういうことであろうか。ホモイアという言葉であるが、同じ形のものを表す言葉である。つまり、からし種もパン種も天の国と同形だと言うのである。良い種を蒔く人も天の国と同形だと言う。そうであれば、天の国はこの世の自然の中に同形化してあることになる。それが「神が基礎を据えたこと」に始まって、この世にある天の国だということであろうか。イエスが「似ている」と言うのは、天の国を知っているからである。イエスは自分が知っている天の国に似ていると言っているのである。天の国は、この世の自然の中に似ているものとしてあると言っているのである。それは、在り方としての天の国である。つまり、天の国を別の国のように考えて、天の国とこの世とを区別する考え方に対して、イエスは否と語っているのではないのか。天の国は、この世の中に同じ在り方で内在していると言うのではないのか。それは、神が基礎を据えたことに始まって、この世を動かしている天の国の在り方なのだと語っているのである。

この世が悪に支配されているかに思えるとしても、この世の基礎を据えた神がおられる。その基礎のうちに天の国の在り方は神の意志として据えられている。それゆえに、如何に悪が蔓延したとしても天の国はなくならないのである。最後には、天の国がすべてとなる。神の基礎は失われない。それゆえに、人間が慌てふためいて、手を加え、良きものを失ってしまうことがないようにと警告している。良い種を蒔いた人は「手放せ」と言っているのだから、人間が支配しようとする意志を手放すのだ。そうすれば、からし種のように、パン種のように、自ずと神の意志は成長し、膨らむ。それこそが天の国の在り方なのだ。この在り方は、ありのままをありのままに生きることである。神が隠しておられるのだから、隠されてしまっていると信頼して生きることである。

我々人間は、アダムとエヴァの堕罪以後、この信頼を生きることができなくなった。隠されてしまっているものを明らかにする神のような力を手に入れようとして、罪を犯した。この世の善悪を判別する知恵を得ようとして、罪を犯してしまった。善悪の判別が、自分の都合によって分けられるがゆえに、我々の善悪判別は恣意的である。自分に良いものだけを選ぼうとする。自分に心地よいものだけを選ぼうとする。こうして、他者の利益を阻害し、自分のための世界を作ろうとする。これが争いに発展するのは必定である。自分の善を拡げるために、都合の悪い他者を駆逐する。互いに他者を駆逐すべき相手と考えるがゆえに、争いが起きる。良きものまでも引き抜いてしまうのが、我々人間の善悪判別なのである。

我々が悪だと考える他者も、神が作り、神が生かしている。敵さえも神が生かしている。真実に悪である存在、神に敵対している存在は、神にすでに知られている。それゆえに、神は知らないのではないのかと、我々が心配する必要はない。神はご自身の意志に背く者を最後には刈り取ってしまわれる。我々は、ありのままに成長し、ありのままに膨らむように造られている。それを妨げるのは、我々の人間的意志なのである。もちろん、悪に流されないようにすることは必要である。悪に流されることなく、善においてしっかりと立つことは必要なことである。それさえも、天の国の在り方に従えば必然的に生きることができるのである。従って、我々は焦る必要はない。心配する必要はない。神の据えた基礎に信頼していれば良いのだ。

我々には隠されてしまっているままであろうとも、それで良いのだ。イエスのたとえを聞いて、理解するよりも、この世界の基礎的な在り方を認めることが重要なのである。からし種もパン種も天の国の在り方に従って、それぞれのありのままを生きている。我々人間も人間としてのありのままを生きるべきなのである。それは、神の似姿、ホモイオーマとしてのわたしを生きることである。

このホモイオーマを生きたお方こそキリストである。キリストは十字架の死に至るまで神に従順であられた。神の意志に従って、すべてを引き受け、すべてを耐え忍ばれた。このお方の在り方こそたとえなのである。十字架こそが隠されてしまっているものの吐き出された姿。謎のままの謎。ありのままの天の国。十字架のキリストこそが天の国を生きている。あなたは神の据えられた基礎の上に生かされている。神に信頼して生きて行こう。

祈ります。

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