「一己の人間として」

2017年8月20日(聖霊降臨後第11主日)

マタイによる福音書13章44節~52節

 

「このことのゆえに、天の国に弟子とされた律法学者は皆、一家の主人に似ている。その人は外に投げ出す、彼の宝の倉から、未だ使っていないものと使い古したものを」とイエスは言う。この言葉が語っているのは、所有あるいは占有の放棄である。未使用の新しいものと使い古したものを「外に投げ出す」と言われているからである。倉の中にしまっておくのではなく、すべての人が使用できるように「外に投げ出す」と言われているのだ。占有を放棄する人は、「天の国に弟子とされている」人である。天の国のことを学ぶことであるが、単に知識として知ったということではなく弟子入りすることであり、学び続けることである。天の国に弟子とされる人は、天の国のことを学び続けるのであり、その学びに終わりはない。常に新たに学び続ける人こそが天の国の弟子である。

天の国の弟子は、天の国に入るというよりも天の国の在り方に生きようとしている人であり、その在り方を常に学んでいる人である。それゆえに、倉からすべてを外に投げ出している。なぜなら、自らの占有を主張せず、すべての人が使用可能であるものを投げ出すからである。自分自身が学んだもの、学びつつあるものを他者と共有して生きる。占有を放棄するのだから、先の二つのたとえのように「所有しているものすべてを売り払う」ようなものである。それは、この世の金銭的価値以上のものを見ているからである。そのような人は、持っているものをすべて売り払うのだから、素っ裸になる。自分自身そのものだけになる。一己の自分だけになるのだ。これが天の国に弟子とされた者の姿である。この占有を放棄させるような力こそ天の国なのである。それゆえに、網に捕らえられる魚のようなものであるとも言われているのだ。

天の国は知るのではない。天の国が人を弟子とするのである。天の国が人間を弟子にして、その内に生かす。天の国は人を捕まえて、すべてを放棄するようにさせる神の力なのである。そのような人間は一己の人間として生きる。自分が占有しているものによって生きるのではない。自分が自分であるように生きる。自分自身のことを心にかけて生きる。持っているものによって生きることはない。それらを外に投げ出して生きる。このようになるにはどうしたら良いのかと考えてもどうにもならない。真実に天の国に弟子とされた者は必然的にそうなるのである。

誰もすべてを放棄しようなどと考えないであろう。そのようなことをすれば、生きていけないと思うからである。誰もしたくないことをするとすれば、それは自分がなりたい者ではない。なりたいと思わなくとも、そうせざるを得なくされて生きる。それが天の国の必然性なのである。そこにあるのは、神の意志の絶対的必然性である。放棄すれば何かを得られるという目的をもってそうするのではない。神の意志に従う者は従う。従わない者は従わない。それだけである。従う者は、従ったならば何かを得られると思って従うのではない。そのような獲得目的のために従うのではない。神に従うということ自体が天の国の在り方である。それゆえに、神に従うこと自体を喜びとする人しか従わない。すべての占有を放棄して、一己の人間として生きることを喜びとする人。その人こそ天の国に弟子とされた人である。

では、我々は天の国に弟子とされているのであろうか。あなたが学び続けているならば弟子とされている。天の国そのものであるイエス・キリストに従おうという意志のみに生きているならば、弟子とされている。その意志は、あなたが起こした意志ではなく、神が起こした意志である。これを信仰と呼ぶのである。信仰は神に従う意志を起こされ、キリストに従うことを通して神に従うのである。キリストに従うことは、天の国の弟子とされることなのである。天の国を学び続けることなのである。キリスト者は天の国を学び続け、完全に生きようと求め続けている存在である。キリストが生きたようにわたしも生きようと求め続けている者がキリスト者である。このとき、わたしが占有しているものは何一つ役立たない。わたし自身、わたしの魂そのものだけが必要なのである。一己の人間であるわたしだけがキリストに従うのである。多くの所有物を持ってキリストに従うのではない。所有物が多くあればあるだけ、従うことが困難になる。天の国を生きるのは、わたしそのものだけであり、所有物はあっても邪魔なだけである。わたしが天の国に生きているならば、終わりの日には何も持たないままに神の前に出ることを思い起こすであろう。それゆえに、現在も何も持たないままに神の前にひれ伏すのである。神に何かを差し出して、天の国に入れてもらうわけではない。神に差し出すものは何もない。神は、我々人間から何かを差し出される必要はない。すべてのものが神から出ているからである。それゆえに、我々は神に差し出すとすれば、わたし自身を差し出すのだ。わたしという魂を差し出すのだ。神が造り給うたわたしの魂を神のものとして差し出す。そのとき、我々は天の国に弟子とされて、神の力に満たされるであろう。神が造り給うたわたしの魂を神は喜び受け入れ給う。一己の人間であるわたしの魂を、神が発見し、喜び買い取るために、ご自身のすべてを売り払い給うた出来事、それがキリストの十字架である。

キリストは、我々一人ひとりの人間の魂を高価な真珠、畑の宝として見出してくださった。我々の魂を買い取るために、ご自身を差し出してくださった。このお方の高価さは、人類すべてを買い取るに値する高価さである。しかし、また一人ひとりの魂がキリストの魂と等しく取引されるのでもある。キリストは、我々一人ひとりをご自身で買い取ってくださったのだから。それゆえに、我々は買い取られた者として、占有を放棄せざるを得ない。所有を主張できない。わたしはわたしのものではない。キリストに買い取られたわたしなのだ。この一己の人間を買い取り給うたお方が、一己の人間として十字架に架かり給うた。一己の人間の買い取りを、一己の人間であるキリストが行い給うた。喜びをもって買い取り給うた。ここに我々人間の幸いがある。そして、人間の喜びがある。わたしのすべてをキリストに使っていただく喜びがある。

未使用のわたしも、使い古しのわたしもすべてを外に投げ出して、キリストに使っていただく。そのとき、我々はこれまでのわたしとこれからのわたしを神の意志のまえに差し出す。わたしの過去と未来が神の前に差し出される。神さま、どうぞわたしを御心に従ってお使いくださいと差し出す。一己の人間が差し出されるとき、神はその人の過去と未来のすべてを受け入れ、天の国に生きるようにしてくださる。

我々が神に差し出す一己の人間であるとき、神はこのわたしを顧み、天の国を学ばせてくださる。神に従わなかった使い古しのわたしが神のものとして用いられる。神に差し出さなかった未使用のわたしが神のものとして用いられる。一己の人間であるわたしの魂は神に用いられることで喜びに満たされる。すべてを売り払っても良いほどに喜んで神に従う。あなたを買い取り給うたキリストの喜びがあなたのうちに満たされる。我々キリスト者は、神の喜びを喜び、キリストの喜びを満たされる存在である。キリストがあなたのうちに形作られることによって、あなたはキリストの喜びを生きる。十字架の上にすべてを売り払い給うたキリストの喜びを生きる。そのためにキリストは聖餐を設定してくださった。キリストの体と血に与る聖餐を通して、天の国の似姿である十字架のキリストがあなたのうちに形作られる。十字架を引き受け給うたキリストの在り方が形作られる。あなたが獲得するのではない。キリストが与え給う。神が与え給う。神があなたを捕らえ給う。神の御業に、一己の人間としてのわたしを委ね、造り替えていただこう。御心に従う者として、形作っていただこう。あなたは神の目に高価なるもの。神が喜び給うあなたの魂を神に差し出し、神のみ前にひれ伏そう。神はすべての善きものであなたを満たしてくださる。

祈ります。

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