「わたしに ここに」

2017年8月27日(聖霊降臨後第12主日)

マタイによる福音書14章13節~21節

 

「持ってきなさい、わたしに、ここに、それらを」とイエスは言う。それらパンと魚を持ってきなさいと言う。わたしに持ってきなさい、ここに持ってきなさいと言う。イエスに持っていくこと。イエスがおられるそこに持っていくこと。イエスはこれを求める。イエスのところに持っていくとは、イエスにすべてを委ねるということである。我々が持っていると思っているものをイエスのところに持っていく。そして、手放す。我々が持っていても何も起こらない。イエスに持っていくことで、イエスの出来事が起こる。これが今日の日課が語っていることである。

イエスが「わたしに」と言うのは、弟子たちが持っているものを手放すことを意味している。弟子たちが持っているものを自分たちだけで持っていても自分たちだけのことしか起こらない。自分たちが持っているものをイエスに持っていくとき、何が起こるのか、弟子たちは知らない。分からないままに、彼らはイエスに持っていく。イエスのところに持っていく。彼ら弟子たちはイエスが何とかしてくれると思っているわけではない。イエスが「持ってきなさい」とおっしゃるから持っていくだけである。これから何が起こるかは分からないままに持っていく。弟子たちがイエスに手渡すことで何が起こるかを知らなくとも、イエスの命令に従う弟子たち。これが信仰の行為である。イエスが命じるがゆえに従う。何が起こるかが問題ではない。イエスが命じることに従うことが重要なことである。この生き方を信仰と呼ぶのである。そのとき、信仰の出来事が生じる。

我々は、五千人の給食の出来事を読むとき、イエスのところに持っていけば、五千人が満腹する出来事が起こると知る。それゆえに、何でもイエスのところに持っていけば良いのだと思い込む。しかし、そうではない。弟子たちは最初からイエスのところに持っていこうとはしなかった。群衆を解散させて欲しいと願った。自分たちが持っている食物は自分たちのためのものだから、群衆には買いに行かせれば良いと考えた。ところが、イエスは言う。「あなたがたが与えなさい、彼らに、食べることを」と。弟子たちは答える。「わたしたちは持っていません、五つのパンと二匹の魚以外」と。これでは、群衆に食べることを与えることはできないと弟子たちは考えた。それゆえに、買いに行かせる方が良いと思ったのである。ところが、イエスは最初に言った。「あなたがたが与えなさい、彼らに、食べることを」と。イエスは食べ物を与えよとおっしゃったのではなかった。食べることを与えるようにとおっしゃったのだ。

食べることを与えるとは「食べさせよ」と言うことである。しかし、食べ物がなければ食べることはできない。その食べ物を買いに行くべきだと弟子たちは考えた。ところがイエスが言う「食べることを与えよ」とは食べるということそのものを与えることである。食べる行為を与えるのではないし、食べるものを与えるのでもない。食べることという出来事でもない。食べるということ自体を与えるという意味である。それは何をすることなのか。

食べ物があれば誰でも食べることを行うかと言えばそうではない。食べ物があっても食べない人もいる。食べたくない人だけではなく、食べることができない人もいる。満腹であるから食べないのではなく、空腹であっても食べることができない人もいる。口が動かないわけではない。食べる行為はできる。しかし、食べないということはあるのだ。断食をしているからではなく、食べない人がいるのだ。そのような人が食べるときには、食べたいと思い、食べる気になり、食べる。人から食べなさいと言われても食べる気になるわけではない。その人自身のうちに食べようという気持ちが起こっていなければ食べないのである。それは生きる上で必要な欲求であるように思える。ところが、食べようというのは欲求ではなく、意欲である。欲求があっても、食べることができない人はいるのである。我々は欲求に従って食べるのではない。食べる意欲を起こされて食べるのである。しかし、弟子たちがそのような意欲を起こさせることができるのであろうか。イエスが食べることを与えよと言うのは、弟子たちが群衆に食べる意欲を起こさせよという意味であろうか。弟子たちは、群衆に食べる意欲を起こすことができるのであろうか。彼らに生きる意欲を起こさせることができるのであろうか。それは神の働きなのではないか。人間が人間に意欲を起こさせることなどできないのではないのか。しかし、イエスはそう言うのである。

弟子たちが食べ物を配って回ったかに思える出来事は、本質的には食べる意欲を配って回ったのである。群衆が食べることはイエスから委ねられたパンと魚を配ることによって起こった。イエスから委ねられたパンと魚は、イエスが群衆に食べる意欲を起こさせる媒介物である。弟子たちが配ったのは、イエスからいただいた食べるということ自体、食べる意欲、食べることの全体である。群衆に食べることを与えたのは、神である。イエスがパンと魚を感謝したことによって、食べることが与えられる道が開かれた。弟子たちは、自分たちが持っているパンと魚をイエスのところに持っていくことで手放し、イエスは神に感謝することで、神から新たにいただいた。いただいた食べ物を配ることにおいて、弟子たちは食べることを与えて回ったのである。群衆の食べること、食べる意欲は、神から与えられたのである。

我々がこどもたちに食事を作って食べさせるとき、彼らは食べて欲しいという我々の心を受け取って食べようとするのである。「これはあなたに食べて欲しい」という心を受け取って食べるのである。そのとき、食べているのは食べ物ではなく、食べ物を通してやって来た与える人の心である。食べて欲しいと願う心である。神が我々に食べ物を与えるのは、食べて欲しいからである。食べるということ自体が我々に生きて欲しいと願う神の心をいただくことなのである。それゆえに、我々が食事の感謝をするのは、食べて欲しいという神の心をいただいたことへの感謝なのだ。食べ物への感謝ではないのだ。イエスが最初に神に感謝するのはそのような感謝の祈りなのである。神が群衆たちに食べて欲しいと願ってくださっている心に感謝したのである。弟子たちは、イエスが裂いたパンと魚を与えられたが、それは神の心を与えられたのである。そして、弟子たちは群衆に与えた。こうして、すべての者が神の心をいただいて満腹したのである。

イエスが「わたしに、ここに」持ってくるようにと命じたパンと魚は、手放されて、新たに神の心を充填され、与えられた。イエスのところに持っていくとき、我々はイエスにすべてを委ね、手放し、神から新たにいただく、神の心こもった贈り物を。あなたに生きて欲しいと願う神の心を。あなたに食べて欲しいと願う神の愛を。あなたを生かしたいと願う神の真実を。あなたは生かされるために、神によって生まれたのだ。神が生きて欲しいと願って、生まれたのだ。我々は偶然生まれたのではない。神の意志があってこそ生まれたのだ。

群衆は、病人たちを抱え、社会から排除され、生きる意欲を失っていた人たち。罪人と蔑まれ、社会に入れてもらえなかった人たち。彼らに誰も生きて欲しいとは思わなかった。いなくなれば、社会がすっきりすると思われていた。食べるものを与えられても、どこかに行って欲しいから与えられたということが分かった。生きて欲しいという心を与えられることはなかったのだ。それゆえにイエスは「わたしに、ここに、持ってきなさい」とおっしゃり、食べることを与えるようにと命じた。イエスのところには、生きて欲しいと願う神の意志が満ちている。イエスは「わたしに、ここに、持ってきなさい」とおっしゃる。わたしが、この神の意志を満たしてあげるからと。イエスの十字架には神の意志が満ちている。あなたを生かすために満ちている。神の言葉が満ちている。十字架を仰ぎつつ、与えられた意志をいただき、意欲を起こされて喜び生きて行こう。

祈ります。

Comments are closed.