「勇気を出せ」

2017年9月3日(聖霊降臨後第13主日)

マタイによる福音書14章22節~33節

 

「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな。」とイエスは言う。弟子たちがうろたえ、恐れている姿に向かって言う。「勇気を出せ」。新共同訳は「安心しなさい」と訳しているが、原文は「勇気を出せ」である。この言い方、この言葉は、聖書の至るところに出てくる。モーセの後を継いだヨシュアに神ヤーウェは言う。「モーセと共にあったように、わたしはあなたと共にある。強くあれ、勇敢であれ」とヤーウェはヨシュアに語りかける。イザヤも35章4節でイスラエルの民に向かって言う。「強くあれ、恐れるな」と。聖書が語る勇気は、大胆なことを行うことではなく、大胆に神を信頼することを意味している。人間を恐れることで、神に信頼することができなくなることが勇気のないことである。人間を恐れず、神を畏れ、神に信頼して生きるとき、如何なる状況にも耐えうる忍耐を与えられる。これこそが聖書が語る「勇気を出せ」という言葉の意味である。その根拠、根底にあるのは「神が共にいる」という信頼である。この神共にいますという信頼は、今日の箇所でも「わたしはある」とイエスが語る言葉によって語られている。イエスが弟子たちに「勇気を出せ」と語りかけるのは、「わたしはある」という信仰的事実に根底があるのだとおっしゃる。それゆえに、何事も恐れる必要はないのだと。

恐れを克服するためには、勇気が必要であるが、自分に力がないと思えば、勇気は出てこない。弟子たちもわたしたちも同じである。ところが、イエスが共におられるという信頼があるならば、我々は勇気を持って生きることができる。この勇気は、ありもしない力をあるかのように思い込ませることではない。確かに「ある」方を信頼するときに、起こされる信仰的勇気である。それは、このわたしに力がないとしても神が共におられるのだから、恐れる必要はないという勇気である。このとき、我々は何事にも取り組むことができる。如何なる状況にあろうとも乗り越えることができる。それはわたしの力で乗り越えるのではなく、神の力によって乗り越えさせていただくことである。それゆえに、使徒パウロは「弱さにおいて、わたしの可能とする力は終極に達している」というキリストの言を聞き、「弱さにおいて主を誇る」という生き方に進んだのだ。

我々は弱さを力なきこととして、自らの力を増やさなければならないと考えてしまう。ところが、パウロは弱さにおいてキリストの力がわたしを覆うのだと信頼し、キリストの力によって立っていったのである。自分の力など高が知れている。自分の力の範囲でしか何もできない。しかし、キリストの可能とする力が、このわたしの弱さの中に満たされていると信頼するならば、わたしの弱さを越えて、キリストが働いてくださる。この信頼をこそ、勇気と呼ぶのである。

大胆に信頼すること。これが勇気である。イエス・キリストが弟子たちに呼びかけた「勇気を出せ」という言葉も同じ勇気である。弟子たちは、自分たちではどうにもしようのない自然的力に翻弄されていた。イエスがそばにいないことに不安を感じていた。そこへ、イエスは海の上を歩いて近づいてくださった。そのイエスの姿を見て、弟子たちは死を目前にして幻影を見ているのだと思い、死の恐怖に襲われたのである。その弟子たちに向かってイエスは言う。「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな」と。

「わたしはある」とは、神ヤーウェの名の由来である。出エジプト記3章14節でヤーウェが言う。「わたしはあるところのわたしである」という言葉がヤーウェという名の由来である。ヤーウェという言葉は「ある」という言葉ハーヤーから説明されている。このハーヤーという言葉をギリシア語に翻訳すると、今日のイエスの言葉「わたしはある」になるのである。つまり、イエスは如何なるところにあろうとも、「わたしはある」を生きているということである。それは、イエスご自身が神であることを表している。さらに、イエスが海の上を歩くことにおいても、自然的法則に縛られないで「ある」お方であることを表している。イエスが弟子たちに語りかける言葉の中心は「わたしはある」なのである。この中心である言に従って、「勇気を出せ」「恐れるな」という言葉が語られている。勇気を出し、恐れない生き方の真ん中に「わたしはある」のだとイエスは語っている。

ペトロは、イエスの言を誤解して、大胆なことを行うことが勇気だと思った。それゆえに海の上を歩くように命じてくれとイエスに言う。しかし、ペトロは「風を見て、恐れた」のである。ペトロは大胆なことを行うことで、勇気を示したかった。ところが、信仰的勇気ではなかったので、風を見て不信に陥り、沈むのである。自分の力を誇示することが勇気なのではない。自らが弱さにおいて神の力を満たされていることに信頼することが勇気なのである。ペトロにはイエスの助ける手が必要だった。この手がなければ、彼は溺れるのである。それほどに、弱い人間である自分を知るとき、ようやくイエスの手を求める。信仰的勇気はイエスの手を求め、しっかりと握っていただくことである。そのとき、ペトロのように我々は引き上げられる。

信仰的勇気は如何にして与えられるのだろうか。自分の弱さを認めるときである。自分の力を増し加えようと躍起になっているときには与えられない。自分の力が弱いのだと認めるとき、力なき者を立たしめ給うお方に信頼するのである。力なき者は力なき者である。我々人間は所詮人間である。人間の域を出ることはできない。神の被造物であることを越えることはできない。被造物は被造物。神ではない。神があるようにしてくださったからある存在である。イエスが「わたしはある」とおっしゃるのは、イエスが神によってあるようにされた存在ではなく、自ら「わたしはある」という存在であるという意味である。我々人間は自らある存在ではない。あるようにされた存在なのだ。この弁えを持つことこそが、我々が人間として生きるということである。

神の被造物としての人間存在として我々が生きるには、神にあらしめていただくほかない。あらしめ給う神に向かって祈るほかない。何事にも、神があらしめ給う力がある。神の力なくしては何も起こり得ない。この信仰のうちに生きる存在は、自らの弱さを除き去ろうとすることはない。むしろ、自らの弱さの中で神に信頼する。神の力によって立たせていただく。神は我々が助けを求めるとき、速やかに手をつかんでくださり、引き上げてくださるのだ。

「勇気を出せ」とおっしゃるイエスは、あの十字架を引き受け給うたお方。死の恐れを克服し給うたお方。死の中で、神の力によって生きておられるお方。このお方が言うのだ。「勇気を出せ」と。我々は、勇気を出せと言われても出せるものではないと思う。しかし、十字架のイエスがおっしゃるのだ。神のご意志に信頼して、勇気を出し、十字架を引き受け給うたイエスがおっしゃるのだ。十字架に我々の勇気の道がある。勇気を起こしていただく道がある。信仰的勇気の根源がある。

この世の嵐の中で、翻弄されるとき、我々は不安に陥り、恐れに支配される。それは人間として仕方のないことである。人間は恐れるのだ。人間を恐れ、死を恐れる。しかし、イエスは言い給う。「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな」と。翻弄されることは必ずある。不安に陥ることも必ずある。恐れに支配されることも必ずある。ヨハネによる福音書16章33節にもあるように、「あなたがたは世で苦難を持つ。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝ってしまっている」とおっしゃるイエスの声を聞くのだ。イエスの声に、イエスの言に、我々では起こし得ない勇気を起こす力がある。あるようにあらしめる力の言が十字架の言である。あの十字架から、イエスは呼びかけてくださる。「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな」と。

この信仰的勇気を我々に与えるために、キリストは聖餐を設定してくださった。キリストの勇気が聖餐のうちに宿っている。今日もキリストの体と血に与り、わたしのうちにキリストに生きていただこう。あなたは勇気をいただくのだ。神に従う信仰的勇気をいただき、神に仕えて行こう。

祈ります。

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