「境界を越えて」

2017年9月10日(聖霊降臨後第14主日)

マタイによる福音書15章21節~28節

 

「見よ、カナン人の女が出てきた、それらの境界たちから、叫んで。彼女は言った、憐れんでください、わたしを。」と記されている。境界とは、行政区画として分けられた地域の境界である。ギリシア語でホリオンというが、この複数形は「地域」を表す。「その地域出身のカナン人の女」と訳すこともできるが、カナン人の女は当然その地域出身であろう。その女がそれらの境界たちを越えて出てきたと理解することもできる。

イエスは、ゲネサレト湖畔でファリサイ派の人たちの批判に応えて、「口から出てくるものが人を汚す」と語った。その場所からティルスとシドンの行政区画へ、イエスは退いたと記されている。退くということは、本来いるべき場所を明け渡して、後退することである。本来いるべき場所はイスラエル国内の行政区画である。イエスはユダヤ人、あるいはガリラヤ人なのだから。そのイエスが退いて、行政区画を越えて、ティルスとシドンへと向かった。そこで、カナン人の女が出てきた。越えてはならない境界を越えて、イエスの許へ出てきた。ユダヤ人は、カナン人などの異邦人とは接触することを避けていた。その境界を越えたのは、イエスがそこに来たからではあるが、カナン人の女も越えてはならない境界を越えたのである。ひどく悪霊に占拠されている娘を救って欲しかったからである。この女の心から出てくる思いは、先のファリサイ派に語ったイエスの言葉からすれば、悪なのだろうか。いや、娘のいのちを守ろうとする心は、悪ではない。心から出てくる悪は、すべてを自分に引きよせようとする思いである。他者を生かそうとする思いは善き思いである。その思いは、人間が定めた境界を越える思いである。人間が定めた境界は自分のための境界だからである。自分が生きること、自分を守ることを優先するために定めた区画が、境界なのである。カナン人の女はこの境界を越えたのである、娘のために。

この女の求めに対して、こどもたちのパンを取り上げて、境界の外にいる小犬に投げるようなことはしないものだとイエスは語る。ところが、この女は自分から境界を越えるというのである。わたしが小犬ならば、家の中の小犬となれば、食卓からのパンくずを食べるではないかと。これを聞いて、イエスは彼女に与えられた大いなる信仰を認める。「あなたが意志しているように、あなたに生ぜよ」とイエスは女に宣言する。「そして、そのときから彼女の娘は癒された」と言われている。娘も境界を越えたのである。

境界を越えるということは、人間たちが定めた行政区画などの境界だけではなく、人間たち自身が互いに縛り合っている境界、閉じ込め合っている境界を越えることである。これは、一般的慣習、体裁、取り決めなどを越えることである。つまり、社会に、人間に縛られずに生きる生へと境界を越えることである。その境界越えの根源には、外面的な取り決めを打ち破る信仰がなければならない。そうでなければ、自分のために境界を越えて、他国を侵略することになる。また、自分の価値観に他者を縛り付けることにもなる。そのような縛り付けている境界を越えさせる力は信仰なのである。

そのためには、自分自身がまず境界を越えなければならない。境界を越えている存在は、自分の境遇にも、地位にも、財産にも縛られない。むしろ、それらを自分のために確保するのではなく、それらを捨てて境界を越える。それゆえに、カナン人の女は自らがカナン人であることを越えて、イエスに近づいたのである。本来近づかない存在に自ら近づいた。それゆえに、イエスの言う「イスラエルの家の失われた羊」ではないとしても、自らイスラエルの家に小犬として入っていこうと言ったのである。自らを低くすることによって、彼女は境界を越えた。低くなることができなければ、低さを受け入れなければ、境界越えはできないのである。それゆえに、人々を慣習に縛り付けているファリサイ派の人たちは低くなることができないがゆえに、境界を越えることはできない。彼らは、他者を批判して、自分は動かないからである。他者が低くして、自分たちのところに入ってくるならば受け入れてやろうという立場だからである。犬になるなら、受け入れてやろう。我々の慣習に従うならば受け入れてやろう。そういう思いこそが、彼らの心から出てきて、自分自身を汚すことになるとイエスは批判していたのだ。だとすれば、イエスも同じように自分のところに入ってくるならば、受け入れてやろうというお方なのであろうか。いや、イエスご自身も境界を越えて、ティルスとシドンの行政区画に入って行かれたのだ。従って、そこでは大きな顔をして癒してやろうとはしなかったのだ。イスラエルの家に入れてやろうということでもなかった。むしろ、イエスご自身はイスラエルの家に遣わされているのだから、ここティルスとシドンの行政区画では資格がないとおっしゃっているのだ。つまり、イエスは女を拒否しているのではなく、自らの小ささを表明しているのである。それゆえに、女はイエスの言を聞いて、自らがあなたのもとに境界を越えていきますと、小犬になったのである。

このような女の謙虚さは、境界を越える大胆さと一致するのかと思えるであろう。しかし、信仰における謙虚さは、大胆さと同じなのである。両者共、神の主体的力に信頼することだからである。

謙虚であることは、自らに力がないことを認めることである。神がわたしの上に力を奮い、わたしを救い給うことを信頼する謙虚さは、神が何事もなさせ給うという大胆さと一致する。信仰における謙虚さと大胆さは共に、神の主体を認め、神の力を信頼することに根源があるのである。それはマリアの讃歌においてマリアが主を讃美することと同じである。低くされている存在を高めてくださるお方を信頼することで、大いなることを行う大胆な信仰に生きる。マリアも低められていることを謙虚に認め、そこに働く神の力の偉大さを称えた。カナン人の女も、自らが低められていることを認めた上で、小犬になって境界を越えて家に入る。信仰における境界越えには、謙虚さと大胆さが同居する。神の前に謙虚になれない者は、神の力に信頼できない。そして大胆に信じて生きる勇気を持つことはない。反対に、謙虚になって、大胆に信じる者は、大いなる信仰の内に包まれている。カナン人の女は、大いなる信仰の内に生かされていることを、イエスに認められた。それゆえに、イエスがおっしゃったように、女が意志するように、女に生じたのである、娘の癒しが。

女に起こされた信仰が、娘の癒しとして生じるということは、境界を越えた女の世界が娘を包んでいるということである。人間が定めた境界を越えて、神の世界はすべての者を包んでいる。その世界を信頼するとき、女の世界は女だけの世界ではない。女が信頼する世界は女だけの世界ではあり得ない。神が造り給うた世界は、女も娘も包み込んでいる世界である。それゆえに、女が神の力を信頼するとき、女が大胆に越えた境界は取り払われ、娘の上にも境界はなくなったのである。だからこそ、「そのときから、娘は癒された」のである。

「そのときから」とは、イエスの宣言の言葉を女が聞いたときからである。女が娘の許に帰ってからではなかった。女は、そこにいて娘を包む世界を生きるようになっていたからである。信仰を起こされたとき、我々の世界は境界を越えている世界となる。如何なる人間的定めも越えさせる力が、神の力だからである。地位、財産、生まれ、人種のごとき境界を越えさせる力が神の力なのである。神の力はそれらを越えて働いているのだから。

イエス・キリストは境界を越えてティルスとシドンに出て行ったが、それはすべての人間を神の子として受け入れる世界への境界越えだった。そこに十字架がある。キリストは十字架において、人間的定めに縛り付けられた。しかし、キリストは神の力において、人間たちの定め、縛りを越えられた。神の力によって、我々は境界を越え、神の世界に生きることができる。キリストが越えてくださった世界を誰も閉じることはできない。謙虚に大胆に、信仰の世界を生きて行こう、キリストに従って。

祈ります。

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