「啓示の鍵」

2017年9月17日(聖霊降臨後第15主日)

マタイによる福音書16章13節~20節

 

「地の上であなたが縛るものは、天において縛られてしまっているものとしてあるだろう。地の上であなたが解くものは、天において解かれてしまっているものとしてあるだろう。」という言葉は、ペトロの罪に定め、罪を赦す鍵の権威を語っていると、ローマ・カトリック教会では解釈されてきた。ペトロという呼び名は「小石」を表すが、女性名詞のペトラ「岩」では男性の呼び名にならないがゆえに、「小石」であるが男性名詞のペトロを使ったと言われる。果たして、どうなのかは分からない。これはペトロに至上の権威が与えられた言葉なのか。あるいは、女性名詞である「教会」エクレーシアを「岩」と呼んだのではないかという主張もある。小石が集まって、大岩となるという意味だと解釈することも可能である。その場合、エクレーシアが「呼び出された者たち」、「集められた者たち」という意味であることと一致する。さらに、ペトロに与えられた「天の国の鍵」は複数形なので、天の国にある多くの入口の門の鍵、あるいはキリスト者一人ひとりに与えられる鍵と考えられる。従って、鍵が複数であるということは、ペトロがすべての人間に鍵を渡すか、あるいはすべての門の鍵をもっていて開けるか、閉じるかを可能とされたという解釈になる。

鍵という表象で語られている事柄は、「縛る」、「解く」という表象に合致するように思える。しかし、啓示という表象とも合致するように思える。啓示は、覆われていたものが取り除かれることだから、縛る、解くとも通じる。しかし、これとても似ているというに過ぎない。果たして、ペトロに与えられた鍵とは何なのだろうか。

鍵が開くのは、門や扉である。門については「陰府の門たち」が複数形で語られている。新共同訳は「陰府の力」と訳してるが、原文は「陰府の門」である。しかも、門は複数形。すると、ペトロに与えられた鍵はこの門に対応する複数形の鍵ということになる。陰府に縛り、陰府から解く鍵ということである。陰府は死の世界であり、いわゆる地獄と考えられてきた。陰府はギリシア語でハデース、見えないところ、死者たちの見えない世界を表す言葉である。これに対応するヘブライ語の言葉はシェオールで、尋ねることを表す。死者たちに現世の人間がどうしたら良いかを尋ねることから来ている。これは旧約で禁止されているが、「口利き」という職業もあった。そのシェオールとハデースは共に死者たちの住むところである。それゆえに、死者たちが生者たちと分けられている門があるという考え方になる。陰府の門を打ち負かして勝利するのが教会であるとイエスはおっしゃっている。ということは、教会が陰府の門を開き、天の国と一つにする鍵を持っているのである。その鍵は、ペトロに与えられた啓示に基づいている。

ペトロが告白した「あなたは生ける神の子キリストである」という告白を、イエスは天の父の啓示だと語っている。幸いなのは、この啓示を受けた存在であるとイエスは言うのだ。ペトロは自分が判断して、イエスとは誰かと答えたのではないとイエスは言うのだ。あなたは、自分で判断して答えたと思っているかも知れないが、それを啓示したのは天の父なのだとおっしゃっているからである。その際、新共同訳が訳す「人間ではなく」とは原文では「血肉ではなく」であり、もっと厳密に訳せば「血や肉ではなく」である。この血は血縁としての血であり、肉とは人間的なものを表す聖書的用語である。つまり、血縁的にキリストだと判断したのではなく、また人間的な判断でもなく、天の父の啓示があなたに与えられたからであるとイエスは言うのである。ということは、ペトロは自分の判断で告白したのではない。天の父の啓示に基づいて告白したのである。イエスがキリストであるという告白は、血縁的にも人間的にも告白することができない告白なのである。

このような告白を行わせ給う父なる神こそ、真実に岩である。岩という表象は旧約聖書では神を現している。詩編などには多く使われている神的表象である。そうすると、この「岩」ペトラとはシモン・ペトロのことではなく、神のことだと言えるであろう。神こそが岩であり、その岩の上にこそイエス・キリストの教会は建てられているのである。その岩とは啓示の岩である。啓示する神こそ教会が建てられている土台である。

この教会に与えられている鍵たちとは、一人ひとりに与えられる啓示であり、啓示の鍵である。それによって、ペトロが縛ることと解くことが天と地の一致において生じるような岩であり、啓示である。だとすれば、この啓示の鍵はキリストの十字架である。キリストの十字架こそが啓示の鍵であり、十字架を通してこそ啓示が与えられるのである。それゆえに、イエスはこの信仰告白の後、受難予告を行うのである。さらに、イエスは「ご自分をキリストである」と誰にも言わないようにと指示している。ということは、宣教とはキリストの十字架を一人ひとりに与えることであって、イエスがキリストであることを人間の言葉によって説得することではないということになる。宣教は十字架を宣教するのである。それこそが啓示の鍵だからである。

この鍵を提示された者は、受け取る者が受け取り、受け取らない者が受け取らない。受け取る者は啓示された者であり、受け取らない者は啓示を拒んだ者である。啓示の拒否は、人間的判断を優先するがゆえである。与えられた啓示を素直に受け取ることこそが信仰なのである。人間的判断では、十字架のキリストが救い主であるなどとは考えられないであろう。しかし、啓示はそのように啓かれている。この語りを聞く耳を開かれないことが縛られることであり、開かれることが解かれることである。

だとすれば、ペトロに縛り解く力があるのだろうか。ペトロが啓示を閉じ開く力があるのだろうか。いや、ペトロにその力があるのではない。鍵を与えられているだけである。しかし、イエスは言うではないか。「地の上であなたが縛るものが、天において縛られてしまってあるであろう。地の上であなたが解くものが、天において解かれてしまってあるであろう」と。これではペトロに縛り解く力があることになる。イエスは何を言おうとしているのであろうか。

ペトロは他の人間よりも先に解かれた者として、啓示を経験している。その経験を持っている者として、義しくないことを義しくないこととして縛り、義しいことを義しいこととして解き、知らせるべきなのである。その働きの中で、十字架という啓示の鍵が使われるのである。陰府の門が開かれ、天の国と陰府と一つである世界を一人ひとりが生きる。その鍵が十字架である。十字架という啓示の鍵は、ペトロが一人ひとりに与える鍵である。それゆえに、ペトロが縛るものは地の上でも天においても縛り、ペトロが解くものは地の上でも天においても解くのである。天と地の区別は生じなくなり、地の上でも天においても天の国を生きることが可能となる。何故なら、十字架という啓示の鍵は、天と地、生と死を分かつ壁を取り除くからである。壁を取り除かれ、天も地も、生も死も神の御手のうちにあることとして生きる者は、地の上で天の国を生き、天において天の国を生きる。それゆえに、死が天と陰府とを分かつこともないのである。十字架において罪赦されたことを受け取る者は、地の上でも天においても罪赦されたわたしを生きるのである。天と地の一致した生を、永遠のいのちと呼ぶ所以である。

我々キリスト者は天と地の一致した生を生きる。キリストが十字架の死において越えてくださった壁をキリストと共に越えるのがキリスト者である。生と死がキリストにおいて一つとなっている。それこそが十字架が啓示した永遠のいのちである。十字架は天の国の鍵、啓示の鍵である。この鍵は、聖餐の度に我々に与えられ、我々に啓示し給う、キリストのおられるところに我々もいることを。聖餐において、我々のうちに与えられるサクラメントであるキリストご自身が我々を啓示された者として形作り給う。あなたは天と地を一つのいのちとして生きる、キリストの十字架、天の国の鍵によって。

祈ります。

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