「天と地の調和」

2017年10月1日(聖霊降臨後第17主日)

マタイによる福音書18章15節~20節

 

「もし、あなたがたの中の二人が共に声を出すなら、地の上で、彼らが願うすべての事柄について。それは生じるであろう、彼らに、天におけるわたしの父の許で」とイエスは言う。先に教会の縛り解く権威について語った言葉は、ペトロに向かって「あなたが縛り解く」と語られていたようであった。しかし、それは啓示の鍵に基づいた権威だったのだから、啓示し給う神に従う権威である。一人ひとりのキリスト者が天と地の一致した世界を生きること、それが啓示の鍵によって開かれる。この開かれた世界は、教会における裁きにおいても、用いられることが今日の日課で語られている。

裁きが行われるのは、天と地の一致していない世界に生きる人々に対してである。その人たちには、天は天、地は地である。一致していないので、地において何を行おうとも、天とは関係ないことになる。この分離した世界は、我々人間が何を行おうとも、天の父は何も関わり給わないと考える世界となる。聖なる世界と俗なる世界を作り出すことで、ときに聖に入り、人生の大半を俗に生きることになる。聖なる世界はときどきで良いのだ。俗を生きるだけでは物足りないがゆえに、たまに聖を生きるだけである。これが聖俗分離した世界、我々人間の世界である。聖俗分離のない世界は、聖も俗もなく、すべてが神の世界である。俗と思える世界も神の世界である。従って、天も地も神の世界であり、区別はない。そのような人にとって、地は人間的な世界ではなく、人間たちが住む世界であり、天は神が住む世界である。この天も地も神のものである世界ならば、地においても神の意志が貫徹する。天においてはなおさら貫徹している。これを妨げるのは、サタンであるが、サタンさえも神の支配の下にあるのだから、抵抗することはできず、すべては神の意志に従って完成する。

このような世界においては、一人ひとりのキリスト者が互いを神の世界の住人として受け入れることが根本にある。さらに、我々人間は罪が消えたのではなく、罪を数えられないだけだという認識も必要である。罪赦された者のうちには残存する罪があり、我々を誤らせる。それゆえに、互いに罪を認め合い、指摘し合い、神の意志に従い得ない自分自身を互いに認めなければならない。そのとき、我々の間には、キリストがおられる。キリストは我々のうちに生きておられる。我々の罪が完全にキリストのうちに飲み込まれ、我々が完全にキリストの善きものを生きるようになるまで、キリストは我々のうちなる人の質的な新しさを更新してくださる。我々が互いに罪を戒め合い、罪を告白し合うならば、我々は天と地の調和のうちに、一(いつ)とされていくであろう。そのような世界こそが、キリストが導き給う世界である。

この調和は、共に声を出す調和である。調和するということは、共に声を出せるほどに一(いつ)となっている調和である。それは、何でも同じという一(いつ)ではない。違う者同士が互いを認め合い、一(いつ)なる神の下で一(いつ)なる世界を生きることである。そのとき、我々は神の世界を生きる。神の世界は、わたしとあなたの違いを含めて、一(いつ)である。神が一(いつ)として造り給うた世界である。それゆえに、如何なる違いがあろうとも、共に声を出すことが可能なる一(いつ)である。

共に声を出すというシュンフォネオーというギリシア語は調和した音楽としてのシンフォニー(交響曲)を表す言葉の語源である。共に声を出して、ぶつからない。共に声を出して、邪魔にならない。互いに相手の声と調和する声を出す。新共同訳が「心を合わせて」と訳している言葉がこのシュンフォネオーである。日本人は「心を合わせる」ことが好きであるが、声を合わせるという具体的な技術が下手である。技術は下手でも、心があれば、心を合わせているから、と言い訳するものである。心があるなら、技術的にも進歩するであろう。努力するであろう。心がないから努力しないのである。心を重視する日本人は、単なる言い訳としてこのように語るのだ。

共に声を出すという技術の訓練こそが一(いつ)なる声を出すためには必要なのである。これを怠っておきながら、心があるなどとどうして言えるのか。祈りにしても、共に声を出す技術を持って、祈るのである。この技術的修練がなければ、祈りも自分勝手な祈りを皆がわめき散らすような祈りとなってしまう。それこそばらばらの自分勝手な祈りが入り乱れて、何を祈っているのか分からなくなる。パウロがコリントの信徒たちに書いた第一の手紙14章にもそのような分裂した状況が描写されている。教会が罪人の集まりであるという点にその原因がある。そこでパウロは「愛を追いかけよ」と語る。愛に執拗に迫って、その心を自らのものとして生きよと。分裂しないで、キリストの体として一(いつ)を生きるように促すのである。

共に声を出す技術を修練することは心がなくて良いということではない。心の信仰に従って生きる者たちが、外的業において自らの体を使用する。この使用において、我々は鍛練し、より良く使うことができるようにと努力するのである。信仰に従った努力こそ信仰者の努力である。努力もせずに、信仰がありますなどとどうして言えるのであろうか。信仰があるならば、不信仰なわたしをお赦しください。わたしに信仰をお与えくださいと祈るのだ。そして、信仰に従って、わたしを形作ってくださいと祈る。これこそが、我々ルーテル教会の祈りである。

共に声を出すのは、複数の人間。最小単位は二名である。この二名が共に声を出すことができるならば、その中心におられるのはキリストである。キリストが二人を一(いつ)にし給う。二つのものを一(いつ)にし給うお方がキリスト。我々人間が互いの間に築いた分離する隔壁もキリストは破壊し、一(いつ)にし給うた。この一(いつ)なる世界こそがキリストの世界である。この世界は、世界中どこでも二人が共に声を出すときにはそこにある。キリストはそうおっしゃっている。

従って、キリストの世界に包まれて、我々は共に声を出すことが可能となる。キリストに包まれることで、一(いつ)なる世界はどこにでも現出する。天と地の調和した世界がそこに現出する。そのために、共に声を出すという具体的な訓練が必要になるのだ。それは、共に讃美すること。神を誉め称えること。神を誉め称えるために、声を合わせること。一つの声になること。このとき、我々は如何に多くの善き業を行っていることであろうか。

ヨハネによる福音書第6章29節において、キリストはこうおっしゃっている。「神がお遣わしになった者へとあなたがたが信じること、これが神の働きである」と。キリストを信じる信仰において、すべての神の働きが行われるのである。この信仰が我々を外的業へと必然的に促すからである。信じる者は行わざるを得ない。行わない信仰などない。信仰は神の意志に従順に従うことだからである。これ一つだけを持っていれば、我々は如何なる業を行おうとも、自らの身体を鍛練し、使用し、信仰における業を行うのである。

このような信仰の世界は、天と地の調和した世界。相互に分裂することなく、すべてを受け入れ、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望む世界である。この地上で悪いことと思われることが生じたようであっても、それも神の御業である。そこから神の働きが行われるのだ。我々の祈りは、悪いことが起こらないようにという祈りであってはならない。むしろ、苦難は必ずある世界において、すでに勝ってしまっているキリストに従って生きる世界である。そのとき、世界は我々にとって苦難と思えてもなお、それさえも神の業であると信じるであろう。それこそが、我々が教会であること、神のエクレーシアであることなのだ。

すべてのことが共に働いて、益なる世界を造りだして行く。このような世界が我々が信じる神の世界である。あなたの苦難も、悲しみも、すべては神の業、完成へと向かう神の働きなのである。このような信仰のうちに我々ルーテル教会は生きている。十字架のキリストを仰ぎながら、神の意志に従ってなる世界を生きて行こう。

祈ります。

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